俳句時評 第70回 外山一機

演奏はもう始まっている

今年八月、江里昭彦と中川智正による同人誌『ジャム・セッション』が創刊された。巻頭で江里は創刊までの経緯を次のように述べている。

中川智正氏は、オウム真理教の元幹部のひとりであり、教団がひき起こした複数の犯罪に関わったとして起訴され、ながい裁判の末、昨年晩秋に死刑判決が確定した。その結果、被告から確定死刑囚へと身分が変わった。(略)被告の頃からすでに短歌・俳句の実作を試みていた中川氏は、私との面会が不可能になる直前、歳時記の差し入れを希望した。それを、これからも継続して詩歌を作りたいという意思表示であると理解した私は、最後の面会において、ふたりだけで同人誌を出そうと提案した。(「創刊にあたって」)

同誌の「あとがき」によれば、両者の出会いは江里の職場であった京都府立医科大学の学生課に、まだ医学生であった中川が出入りしていた一九八六年にまでさかのぼる。当時は「淡い関わり」でしかなかった二人が約四半世紀を経て同人誌を出すに至った事情について安易な推測は許されまい。だが江里の作家としての道程を顧みるとき、同誌の創刊は、あるいは必然ではなかったかとさえ思われるのである。

江里昭彦はこれまで、同じ時代を生きる人間をまなざし、その痛みを一貫して掬いあげまた問い続けてきた。江里は「意味への帰依―私にとっての短歌と俳句―」のなかで詩歌を「人間存在を悼む営為」といい、リルケの「ドゥイノの悲歌」を引き「『ありとあらゆるもののうちで最もうつろいやすい』人間存在を悼むとは、彼らが存在したことの意味(あるいは無意味)を探り続けることに他ならない」としている。江里が「青臭い信念表白に堕するかもしれないのを承知で」、このように述べたのは一九七七年一二月発行の『京大俳句』においてであった。江里は自らの第一句集『ラディカル・マザー・コンプレックス』(南方社、一九八三)の帯に「京大俳句会を追憶するために」の一文を付したが、同書の「あとがき」ではまた自身が最後の編集長を務めることになった京大俳句会を振り返っている。

このままでは、俳句会は衰弱死してしまう。どうせ潰れるのなら、言いたいことを言うだけ言ってからにしよう。七〇年代も半ば過ぎて、めいめいが青春末期にさしかかっていた私たち新世代の有志は、落暉を呼び戻すかのような意気ごみで、私たちの内部で「違いを強調する」論争をおっぱじめたのです。(略)論点は、言語表現において俳句形式がなしうる貢献について(つまり、俳句形式の存在理由)、俳句と短歌の方法の違いについて、俳諧性の継承について、意味論について、批評と読解について、など多岐にわたりました。

江里はのちにこの論争を自身の評論集『俳句前線世紀末ガイダンス』(海風社、一九八八)に収録する際「恥を忍んで公開する」と断りつつ「京大俳句会の活動の一端と、その批評の水準を、多くの人に知ってもらいたいからだ」とその収録理由を述べているが、江里がいうようにこれは決して「私的な回顧趣味」にとどまるものではない。彼らは、一九七〇年代に姿を現してきた新たな俳句表現を視野に入れつつ、一方で自らの所属する「京大俳句会」という特異な場にも十分に自覚的でありながら、同時に自らの志を自他に問うていくという、思えば相当に困難な道を選びとっていた数少ない書き手たちであったのである(にもかかわらず、当時の彼らの言葉が明るさを湛えているのは特筆すべきことだ)。そして江里はこの論争の過程で「人間存在を悼む営為」を自らの志として表明していったのであった。

みず揺曳少年歩めばみず揺曳   『ラディカル・マザー・コンプレックス』
枇杷の肛門(アヌス)すすり家族ら霊迎   同
地上へと散るさみしさや鳥の糞   『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』
産卵のはげしき雪の帝都かな   同
首出して夫婦雪夜を眠りをり   同

江里の俳句において「性愛」や「家族」は重要なテーマのひとつであるが、林桂は「性愛が、性愛にとどまらず、〈家族〉を射程のうちに呼びこむこと、つまり、〈つがいと再生産〉の問題に向き合わざるをえないこと―ここにこそ、この語(ロマンチック・ラブ・イデオロギー……外山注)のキーワードたる所以がある」としている(「江里昭彦のロマンチック・ラブ・イデオロギー」『詩学』一九九二・一)。一方で、第二句集『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』(弘栄堂書店、一九九一)から一一年後に刊行された『クローン羊のしずかな瞳』(砂子屋書房、二〇〇二)では、これまでのテーマを引き継ぎながらも、老いや死への意識がより色濃くなってくる。

わが骨もやがては遺骨ぼたん雪
引き取り手なき遺体なり月見草
ひとを燃やすひとの膏(あぶら)は炎と婚(つな)ぐ

江里が「四十が近づくあたりから、自ら設定したテーマを、自分の観点ではこれ以上深く掘り下げられないという飽和感につきあたるように」なるという「友人」の見立てを「自らの来し方を顧みて、実に説得力のある見立てだ」といったのは一九八九年、江里の三〇代最後の年のことであった(「行き悩む批評家のためのパヴァーヌ」『俳句空間』一九八九・九)。そしてオウム真理教がにわかに注目を浴び始めたのは、奇しくも第二句集以後の江里がこの「難所」にさしかかったときであった。

『ジャム・セッション』は江里による「創刊にあたって」にはじまり、ゲストの齋藤愼爾の俳句(一〇句)、中川の俳句(一八句)、江里の俳句(七句)、江里の「あとがき」でおわるわずか一四ページの小冊子である。江里は同誌のなかで中川との出会いや交流についてわずかに書き記してはいるものの、たとえば「被告の頃からすでに短歌・俳句の実作を試みていた」という中川の過去の作品については口を噤んでいる。一方で江里は自身が中川と出会った年を振り返りながら、ちょうどその年の大学祭の実行委員長であり、ゆえに「大学の顔」であった中川の姿をこんな風に書いている。

手元に「プレフェスティヴァル86」というビラが残っている。十月二十五日、京都教育文化センターでもたれた催しだ。プログラムの冒頭に「委員長中川智正口琴独奏」とある。口琴とはハーモニカだろう。催しを見にゆかなかった私は中川氏の独奏を聴いていない。今日に至るまで、ハーモニカをあやつる彼の姿を見たことがない。(前掲「あとがき」)

江里は俳句の実作者としての中川の姿を描くのではなく、むしろ幻想としてのハーモニカ奏者・中川智正を読者に提示する。だから読者は、ついに誰も聴くことのできない中川の演奏を各々のうちに呼びこみながら中川の俳句を読むことになる。

中学時代の教科書にあった随筆の内容を思い出して

立春や卵も立つと習いけり
ギーギギギッ蝉食わるるか闇の奥
肉牛の眼が出廷車映し過ぐ
蜘蛛枯れて血のごと細き糸遺す

ただし、中川の句はいまや独奏ではない。それは齋藤や江里の俳句と文字通り「ジャム・セッション」の様相を呈している。

眠りては螢袋の母に会ふ
木の葉髪纏ひて己が身の葬り
月明の産湯にあゝと幼な吾
播く種子をかんがへ花野逢引きす
春眠といふ漣にをる齢

齋藤愼爾はこれらの句に「挽歌」の題を与え、さらに吉本隆明の詩句「けふから ぼくらは泣かない/きのふまでのように もう世界は/うつくしくもなくなったから」(「涙が涸れる」)を引く。「挽歌」とは自らに向けられたそれであって、同時にそれは、齋藤がたしかに自らと同じ時代を生きたと認識している人々-すなわち「ぼくら」が、たとえば吉本隆明の死に象徴されるようにいよいよもってその喪失の季節を迎えたことをも示唆していよう。齋藤は「ぼくら」の喪失を自ら悼むことによって、喪主でありかつ葬送される者としての視座を僕たちの前に展開する。だがこの「挽歌」は自らの世代を悼む言葉としてのみ終始するものではない。一回り近く年下の江里やさらに年下の中川の句と響きあうことで、斎藤の「挽歌」は他世代の負う痛みを-換言すれば「戦後」以後を生きた複数の世代の痛みを-その外周へと引き寄せる。思えば齋藤は、「刺客のように押し寄せる冬波に孤りふるえながらも何ものかに敢然と対峙しているといった不敵な情念をたぎらせていた」、あるいは「存在それ自体が苦しく発酵し空しく出口を求めていた」と、自らの「日本海の孤島での少年時代」を告白したあの瑞々しい処女句集『夏への扉』(蒼土舎、一九七九)の当時から一貫して「人間存在を悼む営為」を続けてきたのであった。

最後に「砂丘を測量していた男へ」と題する江里の作品を見てみよう。

海凪いで雲おしみなく日矢降らす
讃美歌や沖に呼びあう島ふたつ
虹仰ぐとき無防備の一家族
うさぎ抱いて唐天竺を想いをり

これらの句や「砂丘を測量していた男」を中川へのオマージュや暗喩であると見なすのは浅薄にすぎるだろう。江里の見ているものは中川智正という特定の個人だけではない。一九五〇年生まれの江里は「私の呼吸するリズムとどこかで共振する巨きな波長のようなもの、という想念を育みながら」、二〇世紀の後半に伴走してきた(前掲『クローン羊のしずかな瞳』)。「砂丘を測量」するとは、あるいは切実な-その実空虚な生の営みの謂ではあるまいか。それは「冷戦構造、市場経済、市民社会といった大きな枠組み」だけでなく多くのものに「適応」を求められる世紀の同伴者として自覚的にふるまいつつも、その終焉において「クローン羊の誕生」という新たな事態に「当惑」し「おびえ」を抱いた江里の姿そのものでもある。江里はむしろ自らの姿を誠実に『ジャム・セッション』と名付けられた場に差しだしてみせたのである。

江里はまた次のようにいう。

私たちは、この演奏を、できるだけながく続けたいと念じている。

僕たちはこの演奏がそう長くは続かないことを知っている。そしてそれが何故であるかも知っている。そしてまた気がつくはずである。この演奏が長く続かないことを望んでいるのは-日本という社会に見事なまでに「適応」している-他ならない自分自身であるのかもしれない、と。だが僕たちはすでにこの「セッション」の当事者になってしまった。「演奏」は僕たちの目の前で、もしかしたら僕たちが望みもしなかったようなかたちで、もう始まっているのである。

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