俳句時評 第78回  山田耕司

その知は冒険しているか

人間の愚かさは、あらゆるものについて答えをもっていることだ。作家の仕事というのは世界(人生)を問いかけとして伝えることだ。決して答えを与えることにあるのではない。  ミラン・クンデラ

こちらは、湊圭史さんの文から。
詩客 俳句時評第77回 すなわち前回の掲載。 

などなど、考えていると、とんでもなく「反時代的」な書物が手元に舞い込んできました。高山れおなの『俳諧曾我』。「目録+開題」も含めると8冊に分かれた装丁はそれ自体、現代の「句集」についての爆弾的批評でしょう。内容も、曾我物語、「長靴をはいた猫」に基づく連作から、作者お得意の前書付き俳句集、「パイク」(≒横書き俳句)集と、「技法と修辞」、それに、浪費的な教養・情報の氾濫からなっていて、「修辞や技法」を目立たせない穏便な現代俳句の風景に波風を立ててくれています(この波がどこかにどんどん波及すればいいですが、それはない、のかな?)。それに読んでいると、著者が「個体発生は系統発生を反復する――そんな生物学の古い学説を、俳句で実践したらどうなるかと、かなり前から考えていた」と言うように、俳句史に対する愛情に満ちたオマージュであることも見えてくるのですね。そのあたりは、俳人の詳しいコメントをどこかで読みたいところです。ペロー「長靴をはいた猫」に基づく連作「侯爵領」(このタイトルも、いわずもがな、髙柳重信『伯爵領』にかけられてますね)の最後の句、

金泥もて写さむ 絡まる根 オヱ!

これは、入沢康夫の名詩集『わが出雲・わが鎮魂』から。「パイク・レッスン」の

E.Pの墓守(も)る百億の昼の蜥蜴(ドラゴン)

のE.Pはもちろん、エズラ・パウンド。こういうのを俳句のなかに発見するのが楽しい、というのは、俳句界ではあるんでしょうかね、さて? (私はとても楽しいです。)

こういうのを俳句のなかに発見するのが楽しい、というのは、俳句界ではあるんでしょうかね、さて?

という問いかけに対しての回答としては、コチラをお読みいただくのがふさわしかろう。

週刊俳句 句集を読む 「高山れおな『俳諧曽我』を読む」 福田若之 

ぞ散るらんぞけさは花に魚を煮て

ゾケサとは、蓮實重彦『反=日本語論』において語られる架空の生き物である。『蛍の光』の「あけてぞけさは わかれゆく」の一節を、係り助詞の概念を理解していなかった少年・蓮實重彦は、この一節を「あけて ゾケサは わかれゆく」と解釈し、

「なぜか佐渡のような島の顔をした「ゾケサ」という植物めいた動物が、何頭も何頭も、朝日に向かってぞろぞろと二手に別れて遠ざかってゆく光景を、卒業式の妙に湿った雰囲気の中で想像せずにはいられないのだ。ゾケサたちは、たぶん彼ら自身も知らない深い理由に衝き動かされて、黙々と親しい仲間を捨てて別の世界へと旅立ってゆくのだろう。生きてゆくということは、ことによると、こうした理不尽な別れを寡黙に耐えることなのだろうか、ああ可哀そうなゾケサたちよ。」というわけだ。

ことによると我々はゾケサを食べることで、新しいゾケサになる可能性を担保されるのかもしれない。ゾケサ出生の地はテクストの内部と外部の境界にある、あのあいまいな場所に違いない。

ところで、パイクは――少なくともその名詞としての発生の由来の得体の知れなさのうちに――ゾケサ的なものをはらんでいるように思われる。ここにきて、「パイク・レッスン」がレッスン=稽古と題されたことにもっともらしい理由をつけることができる。「パイク・レッスン」はテクストが食べ尽くされるその前後に、ゾケサ的=パイク的なものを現出させようという実践の過程だったのではないだろうか。

そろそろ、この文章の序盤で一度放り出した疑問に戻ってもよいだろう。〈「これはパイクではない」とパイクかな〉を最終章の「パイク・レッスン」の最後に置くことを通じて、『俳諧曾我』は飽食の時代に終止符を打ったのではないか。

掲出の部分だけではなく、週刊俳句のページに移動して全文を読まれることをお勧めしたい。

作品は、解読という創造に出会い、与えられている言葉が記号的に示すことを超越して、「豊かな流動」とでもいうような顔つきを持ち始める。そうしたヨミは、たんなる衒学的なすりあわせなどではなく、形式の経てきた歴史や現在への考察に展開されてゆく。(いい文章だなぁ、福田さん。)

これは、まさしく「テキストの内部と外部の境界」に立ち入ることを<おもしろい>と思い、かつ、それを成し遂げうる作者と読者の組み合わせが実現したときにこそ発生すること。いってみれば、現在の俳句界におけるポピュラーな遊び方ではない、としておこう。

ポピュラーではない。しかし、特殊なわけでもない。

  • <「技法と修辞」、それに、浪費的な教養・情報の氾濫>に席巻された和歌の世界へのカウンターカルチャーであったこと。
  • 他者の句に表現を相対化させるということ。

俳諧の連歌の特徴に上記の二つをみてとることにしてみよう。
前者は、であるからこそ、なにやらありがたそうな知に対して、俗なるものを求める志向を生んだ。
後者は、一巻の連歌をあげる過程で、「わたし」などというこだわりを去り、「テクストの内部と外部の境界」に住むことを作者たちに求めたことだろう。

これらの特徴は、知的作法として、新鮮さを表現にもたらすと同時に、表現者がひとところにとどまることを拒絶する宿命をはらんでいた。「俗」なるものが情報として共有され次の作句への指標とさえなるとしたら、それは同時に「俗」としてのエネルギー減退を意味することになるだろう。したがって<「俗」なるものは更新されなければならない>というわけだ。また、「わたし」を表現の根拠としないがゆえにこそ、表現の辺縁は自己の体験や感情に依るものではなく、知的に構成された条件の下で形成せざるを得なかったはずだ。

とはいうものの、どんな時代でも、その様式の本質をつく者は限られている。俳諧の連歌が大衆化するにあたっては、カウンターカルチャーとしての作法そのものが「マニュアル」化し、そのマニュアルの伝導したるべき「レッスンプロ」があらわれるのである。当然、俳諧の連歌は本来持ち合わせていた毒性がうすまり、共同作業として自己目的化していくことになる。ともあれ、俳諧の連歌の知的財産は、個々の作品群というよりは、皮肉なことに大衆化するための「マニュアル」と「レッスンプロ」というシステムにおいて、今日に伝えられているのである。

いかにも「マニュアル」と「レッスンプロ」を糾弾しかねない話の流れ方だが、本稿の提案は、むしろ、逆。「マニュアル」はマニュアルらしく知識のアーカイブたるべく、また、「レッスンプロ」は「レッスンプロ」らしく先行する知の領域をふまえた上でその司祭として毅然としていて欲しいのである。

蓄積していく知が敷衍されつくし常識化の沈殿に淀む時、定型は、新しい「知の破れ目」を求め、その表現の地平を拓こうとする。そのときに、個々の人間性を表明するなどというまどろっこしさを排除せざるを得ない「俳諧」的な要素を以てこそ、かつて書かれることが無かった次元へと表現を推し進めるのではないだろうか。

しかるに、たとえばマニュアルとしての歳時記が必要以上に「ありがたい」ものと位置付けられ、掲載される作品も「のどごしがよくて腹もちの悪い」ような、つまり先行するテクストとして表現者に挑みかかることが無いようなものばかりでは、新しい作品を誘発するに物足りない。中途半端なのである。

また、「レッスンプロ」としての機能を持つ結社誌などは、プロレスラーを育成する「虎の穴」のような厳しい環境であってもいいのではないだろうか。

ちなみに主宰者がレッスンプロでなければならないという決めつけではない。すぐれたトーナメントプロのもとには、その指導を仰ぐべく人は集うだろう。また、結社誌が総合誌以上のテーマ性を持って作者読者双方を啓発することもあり、その場合には、世界を表現の上で相対化し新しい表現や読解を招来しようとすることにおいて見事な姿勢というべきであろう(拙稿 俳句時評第57回 「澤」の取り組みなど。

おそらく、主宰者がどんな人柄であるか、どんな組織運営をしているか、という問題はさて措き、どのような表現を先行する知の風景として見ているのかによってこそ、結社誌は俳句の世界にバリエーションをもたらし、活性化をもたらしうるのではないだろうか。その先行する知の風景との相対化によって、知的な訓練は施されるのであろうし、であるからこそ、そこから見える「知の破れ目」にも、俳句としてのバリエーションの萌芽が含まれることになるのだろう。

仮に、結社誌が「自分さがしのお手伝い」のような役割しか果たさず、歳時記が「自分の気分にぴったり来る」季語選びのショーウィンドウのようになっているとしたら、そりゃあ、そこには新しい面白さを求めにくかろう。

自分という身体、自分という感情、そのかけがえの無さに基準をおき、その交換不可能な価値を煽りつつ、その表現をパッケージ化していくのが、現代の「個性」をめぐるビジネスのひとつのモデルであるとして、そうした安らかな自己像を導く上で用いられることが少なくないのが、現代における「俳句」の側面のひとつ。総合誌の陥りがちなフィールドだが、ここで、その商売のジャマをしようと言うのではない。ただ、そうしたフィールドでは、俳句表現が類型化するのみならず、目指しているらしき個のありようまでもが、落ち着くところに落ちついてしまうのである。そして、そうした類型性の中に埋没することにおいて、安らぎはより満たされるらしいのである。(ちなみにモンスターシロウトとは、「シロウト」vs「プロ」の構図ではなく、「かけがえの無い私」vs「対価を受けてサービスをする者」との構図において発生するのであり、したがって俳句をめぐるパッケージビジネスはモンスターシロウトの揺籃ということができるかもしれない。)この「「安らぎ」感を、無下に切り捨てるわけにも行かない。これもまた、俳句形式の内包するパワーなのだから。ともあれ、ここがスタンダードとなるのは、この形式にとって望ましいことではあるまい。おそらく、ここに知の訓練をもたらしうる「希望」として、結社誌の機能を捉えているのだが、いかがであろうか。

「俳諧の連歌」と「俳句」は別のものであるから、いっしょに語るべきではないという考え方もあろうかと存ずる。しかし、むしろ現在「俳句」として扱われているものを「俳句」と呼ばずに別の呼び方をすることになるほどの<衝撃>を求めての考察においては、従来の区分がぼけるほどの俯瞰をしなければならないという論者の不明を御赦し願いたい。

「知の破れ目」への志向は、決してポピュラーなわけではないが、かといって、マニアに限定されるものではなく俳句形式のありようそのものに内包されている、といいたいのである。

次代へと斬り込んでゆくのは、「かけがえの無い私」に限定されることなく、先行する表現を食らい、そしてまた、それ自体が次なる表現を喚起するような作品の提示であり、また、読解のありようであろうか。

その点からすると、御中虫の『関揺れる』は、2012年の収穫のひとつであろう。
参考 『関揺れる』についての拙文 俳句時評第45回

長谷川櫂の『震災句集』への批評は、そのまま、手慣れたやりかたで事態をいいおさめる「冒険をしない知」に対しての批評へと拡張され、かつ、それをみずからの個の感性に移しなおすのではなく、関悦史になかば憑依するカタチで表現を試みている。旧仮名遣いにおける誤用などを以て、この句集をおとしめるのは、ちょっと御待ちいただきたい。たしかに表記に関しての問題は、表現性以前の共有事項であるともいえるのだが、ここでは、御中虫のべらぼうないきおい、そしてこの句集に現代の「知の破れ目」のようなものを見いだしてるらしき出版人からの挑発、こんなものをいかに自らの中で相対化するか、その読者としてのウツワが試されていると考えることはできないだろうか。

これもまた御中虫の仕事だが、今年はこの「詩客」において、「俳コレ」への書評として展開した「赤い新選」シリーズには大変楽しませていただいた。

その趣向は破天荒のように見えるが、作家が「かけがえの無い私」と思っているであろう部分を容赦なくえぐり出し、かつ、句を言語表現としてもてなした上でぶった斬るさまは、まさに、痛快。これもまた「知の破れ目」を観じてやまず。

参考 「赤い新選」第一回

思えば、「新選21」(2010/1)「超新選21」(2011/1)「俳コレ」(2012/1)と作家の登場をうながす企画が続いてきた。

そもそも、それぞれの見ている知の風景もことなり、知的作法もことなる作家たちは、一堂に会し連帯を結ぶために集まられたのではなく、むしろ、知のバリエーションを顕現化するためにこそ招集され、そして、そのバリエーションがそれぞれの企図において拡充されることが期待されたのではないだろうか。

現代における新しさとは、個々の人間性のバリエーションではなく、知による冒険の多様性においてこそもたらされると考えれば、そう思わざるを得ないのである。関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』や青山茂根『BABYLON』などは、参加作家の個人句集というのみならず、俳句に対して新しさをもたらす知的冒険として、記憶されるべき収穫であったといえるだろう。

管見。偏見。時評として総合的視野に立たざること甚だし。

世界が感情的にひとつの方向に進もうとする時には、知的多様性はそのトゲトゲをむしりとられ、おさまりのいい姿にされて、いいからおとなしくしていろといわれることが起こりうるものであるとして、であればこそ、知のトゲトゲやら破れ目やらは、みずから覚悟して繕い備えるべきであろうよ、などと思う昨今なれば。

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