俳句時評 第76回 外山一機

決着と憧憬と―宗田安正『最後の一句』

およそ「志」がそのまま「史」となるような営為とは、どのようなものであろうか。

宗田安正『最後の一句―晩年の句より読み解く作家論』(本阿弥書店)が刊行された。副題にあるとおり、宗田は本書において二六人の近・現代俳人の晩年の句を提示し、そこから各俳人を論じるという作家論のスタイルをとっている。本書の「あとがき」によれば、「最後の一句」とは「その俳人の生涯の到達点でもあり集大成でもある」句のことであるが、あえて「生涯の」という一語を加えた点は本書の眼目として見逃してはならないものであろう。宗田にはすでに『昭和の名句集を読む』(本阿弥書店、平成一六)という一書がある。宗田自らが言うようにこれが「俳句表現史を軸に社会や文化も視野に入れ、昭和初期から末年までの画期の句集一冊一冊の作品を読み解くことによって、昭和俳句の構成とその展開を辿った」ものであった。昭和期における俳句表現の最高水準を辿ることで俳句表現の歴史的展開のありようを描き出そうと企図したのが『昭和の名句集を読む』であるとすれば、『最後の一句』は一俳人の生涯における表現の展開を個別に記述するものであって、この二書が縦糸と横糸のごとく美しい綾を織りなしたとき、そこに宗田版俳句史が現出するのである。

しかしながら、宗田が「最後の」一句にこだわるのはなぜだろうか。自らの第二句集『巨眼抄』(深夜叢書社、平成一五)で宗田は次のように述べていた。

句作を再開してみて気づいたことは、時間の流れに身を晒すことの意味、つまりかつてはどんなに膚接していても、山河も死もともに私の外側にあって見据えるべき対象であったが、そのいずれもいつのまにか私の肉体のなかに組み込まれてしまっていることだった。おのずからこの内面と存在の風景にこだわらざるを得なかった。

自らも三冊の句集をもつ宗田がその第一句集『個室』を上梓したのは昭和六〇年。同書には宗田が約三〇年に渡って句作を中断する以前の青年期の作品が収められているが、いまや宗田は結核療養生活において死と対峙していたかつての自らについて「山河も死もともに私の外側にあって見据えるべき対象であった」と捉え直すことのできる場所にまで辿りついたのであった。そして、かつては「私」の外部にあると思われた「山河や死」を、「私の肉体のなかに組み込まれてしまっている」それとして見つめ直すこと、さらには「この内面と存在の風景」にどこまでもこだわることをもって宗田の生の現在がある。換言すれば、生には死が必然的に内在しているということへの気づきが、反転して、実は死もまた生を内在しているのだという視点を宗田にもたらしたのであった。『巨眼抄』の一句「巨き眼の枯野となりて昏れにけり」とは、死ではなくそのような生を詠んだものだったのではあるまいか。とすれば、ここにおいて『最後の一句』なる一書を著した宗田の意志のありようもおのずと想像されるのである。

本書で提示されるのは二六人の「最後の一句」だが、宗田が断っているようにそれは必ずしも時間的にみて正確な意味での「最後の一句」であるとは限らない。だから、たとえば宗田が「目醒め/がちなる/わが盡忠は/俳句かな」という、その死の七年近くも以前の句を「高柳重信」の「最後の一句」として提示し、一方で死の年に発表された一行表記作品「おーいおーい命惜しめという山彦」を「高柳重信」の「最後の一句」とはしないとき、僕たちは、「最後の一句」を語る宗田の営みとは畢竟宗田がその俳人の生涯に自分なりの決着をつけるべくその俳人の生や遺された表現と語らう行為としてのそれであったということに思いが至るのである。あるいはまた、山口誓子の「最後の一句」として死の前年(平成五年)発表の連作「神戸港花火大会五句」の巻頭句「一輪の花となりたる揚花火」を挙げ、「これを里帰りと見ることも可能かも知れない」としながらあえて「誓子は最後までみずから信じる方法を貫いたことになる」と評するときも、僕らがそうした評によって知ることになるのは、誓子の作家としての展開のありようもさることながら、むしろ「現代俳句のハードル又はルールでもあった偉大な俳人」(鈴木六林男「誓子管見」『俳壇』平成六・六)の九二年間の生と死に宗田自身が何を見ているのかということなのではあるまいか。そして同時に、その営為はついに見ることのかなわない次なる展開への果てしない憧憬を伴わずにはいられない。宗田が「知悉した形式の技術に乗っての作だけにかえって発想も自由に」なった高柳の一行表記作品について「この一行句が育ち、高柳の全句業の中でどのようなものになったかを思うと、残念なことであった」と惜しみ、また晩年の誓子の句にも「近代リアリズム」を超えた新たな展開をはかなくも期待しているのはそれゆえではなかったか。

思えば『巨眼抄』には次の句があった。


春闌けぬわが渡らざる橋あまた

すでに渡った橋があるゆえに、いまだ「渡らざる橋」も見えてくるのである。しかし宗田の営為においてそれ以上に重いこととは、いまだ「渡らざる橋」があるゆえに、すでに渡った橋がひときわ美しく見えてくるということではなかろうか。「史」を記す宗田の意識は彼岸の反照としての此岸にこそあろう。

だから宗田が寺山修司を語るとき、それは「渡らざる橋」のこちら側に残された者としての切実な思いの入りまじったものとなる。宗田は寺山の「最後の一句」として「父ありき書物のなかに春を閉ぢ」を挙げているが、この句の初出等を詳らかにしつつ(この句が角川春樹との対談「原風景にあるのはくもった空と柱時計」(『河』昭和五六・二)初出の一句であること、これ以後句の発表がないこと、さらにはこの句が寺山四五歳近くの作品であること)、次のように述べている。

それからほど無い死の年、かつての俳句仲間たちに俳句同人誌「雷帝」創刊の協力を求めてきたこと、俳句に限らずそれまでの全表現活動の主要テーマの一つが、幼年時代に失った父不在の欠落を埋めることにあったことなどを思うと、父への思いと共にこの時点での寺山の過去の総括、父からの、また自身の青春俳句からの独立宣言ともとれる。そこから、果たせなかった最後の表現活動―新誌で展開するはずであった彼の俳句のありようを、想像することも出来るのではあるまいか。

昭和五八年、宗田は寺山の企画した俳句同人誌「雷帝」の創刊を機に約三〇年ぶりに句作を再開する。しかし同年に寺山が死去したため「雷帝」が世に出ることはなかった。ただ寺山の死後、平成五年に「雷帝」の「創刊終刊号」が刊行されている。図らずも寺山の追悼特集号となった「雷帝」の編集後記には次の言葉がある。

死を目前に寺山は、かつての俳句仲間や友人たちと本誌の創刊計画を進めていた。もうあとに退けない最後の表現の場を、最初の表現形式でもあった俳句に求めたのであった。寺山以外の同人作品はゲラになったが、彼には死が作品を創る時間を許さなかった。

思えば、彼の短歌には『田園に死す』という歌のわかれがあり、同じく演劇・映画にも『レミング』『さらば箱舟』という終止符があった。ただ俳句に関してはことあるごとに世界で最も秀れた詩形式であること、また自作についても「せめてボルヘスの小説の一行分位でも凝縮した句が欲しかった」と述懐していたことなどを考え併せると、従来の自作とは異なる作品展開への自負とやり残したことへの万斛の思いがあったのではあるまいか。

この編集後記を書いたのも宗田であった。そしてついに見ることのかなわなかった寺山の次なる展開を惜しみつつ、宗田自身は以後も句作を続けることとなるのである。「最後の一句」を語りつつ寺山以後も自ら句作の場に立ち続ける宗田の営為とは、だから、自らも(そして寺山も)いまだ「渡らざる」場所への遠い憧憬を抱えながら-あるいはそれゆえにこそ―いっそう「こちら側」を愛する者の営為の謂ではなかろうか。


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