俳句時評 第71回 湊圭史

小林恭二『この俳句がスゴい!』―「古典」「文学」としての現代俳句

小林恭二『この俳句がスゴい!』(角川学芸出版)を読む。小林恭二といえば、一九八〇年代の『実用 青春俳句入門』(福武書店)から、九〇年代の『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』、そして現在まで、俳句ジャンルの優れた伴走者として活動をつづけている。文芸ジャンルにとって、プロパー以外の優れた紹介者や鑑賞者は何ものにも代えがたい重要さがあると思える。何にせよ、「自分が書きたい」人間は腐るほどいるのだ(いや、実際腐っているか)。鑑賞や批評、さらには創作、発表の場まで用意する小林がいなかったら、俳句ジャンルは今より辛気くさい、堅苦しいものになっていたことは間違いない。七〇年代生まれの私の世代には、『俳句という遊び』などがジャンルへの入り口となった人間も多いだろう。

『この俳句がスゴい!』はちょっと軽めのタイトルから受ける印象とは違って、小林の本気度の高い俳人紹介である(元原稿は『俳句研究』の連載「恭二歳時記」)。とり上げられるのは、高濱虚子、種田山頭火、尾崎放哉、久保田万太郎、西東三鬼、加藤楸邨、石田波郷、森澄雄、金子兜太、飯田龍太の十人。と書き出してみて、違和感が少しはあるが、かなり考えられた人選ではないか、という気がする。女性俳人が一人も入っていない、とか、楸邨・波郷で草田男がいないのはなぜか、赤黄男でなくて三鬼かあ、とか、久保田万太郎…、とか、自由律は一人でいいんじゃ、とか、ほうぼうから文句も出そうだが、別に著者も網羅的にやる意図はないとみえる。では、これらの俳人(とその俳句)を「スゴい!」とする意図は?、となると、「あとがき」にある次のような部分がヒントだろうか。

本書でとりあげた句のほとんどは、発表時話題となった作品です。その意味で、年配で勉強家の読者の方の中には、知ってる句ばかりで藝がないと思われた方もあるかもしれません。ただ、こうした選句をしたのには理由があります。ひとつには、その時代にもてはやされた句を引くことによって、固有の時代の熱を伝えたかったということ。[…]巨視的にも微視的にも、ひとは時代の影響は免れえません。その意味で、安易に時代の目を持ち込んで、句に内包される時代のエネルギーを殺ぐべきではないというのがわたしの基本姿勢です。

森澄雄、金子兜太、飯田龍太となると、まだ存命の作家もいるし、本当の意味で「現代」俳句といってよいところもあると思うが、小林のここでの視点はこれらの作家についても、現在からは距離のある時代の存在として取り扱おうというものだ。端的にいえば、すでに過去の、「古典」になった存在として。そして、この時代的距離によって、逆に、現代の俳句状況に対する視座を掘り起こしてくるところが、この本のいちばんの読みどころだ。

あと、もう一点、『俳句という遊び』や『俳句という愉しみ』で「読み」からの俳句という視点に現代の俳句ジャンルが移行するきっかけを作った小林が、作家論を通して、「境地」を追求する近代的「文学」としての俳句を語っているのにも興味をひかれる。例えば、飯田龍太の章では、

かつての龍太は、死をもロマンティックに考えるようなある意味浮薄な文学青年でした。それが今、死ぬこともできず、こんな山奥に幽閉されて生きていくことになった。[…]

深読みという批判を覚悟の上で敢えていいます。この句(「春の鳶寄りわかれては高みつつ」)には龍太の脱出願望が隠されていると思います。甲斐は山に囲まれたところです。だから脱出するためには、高くあがらなければならない。高さは自由の象徴なのです。

と、断りを入れながらも、伝記(小林の想像も含め)に思い切り引きつけた作風および作品の読みがなされている。

かといって、作風の紹介、それに作品の読みが狭く、ツマラなくなっているということはまったくない。この辺りは、最初にあげた点、「古典」として距離をもって対象を扱っていることとの兼ね合いで、俳句ジャンルの展開のなかで、作家の境涯がどのように句風に結実していったかをバランスよく語るのに成功しているからだろう。逆にいえば、句風の成立過程やその周辺状況を作家論として語ることで、俳句ジャンルがどのように展開してきたかを強い線で描き出すことが可能になっている(他のやりかたで同じ成果を出そうとしたら、やっかいで読めたものにはならないだろう。古臭そうな作家論はじつはまことに効率がいいのだ)。この意味で私がいちばん面白く読めたのは、森澄雄の章だ。

森澄雄は、一九九〇年代以降の俳句シーンに対して、最大の影響を及ぼした俳人だといって過言ではないでしょう。

実際、森澄雄自身は素晴らしい俳人ですし、彼によって俳句の質は明らかに向上しました。澄雄以前と以後とでは俳句は、洗練度に大きな差があります。
ただ何事もそうですが、ひとつの現象には功罪の両面があります。森澄雄の功の面は今挙げた通りですが、罪の面はあまりに多くの俳人が森澄雄風の句を書いてしまったことにあるでしょう。そのおかげか現代俳壇からバラエティが失われ、また何よりも文藝としての野生が失われました。
もちろん、これは森澄雄個人のせいではありません。俳人がよい俳句を詠もうとするのは当然の話であり、彼は苦闘の末にその才能を開花させたのですから、拍手を受ける資格こそあれ、誰も文句をいう筋合いはありません。
ただ森澄雄の詠む森澄雄風の句は玄妙で素晴らしいのですが、澄雄以外の人が詠む澄雄風の句は、ひじょうにパターン化されやすいんです。亜流を生みやすいともいえる。[…]

章の書き出しの部分だが、個人の句風とそれを巡る状況として、これ以上バランスよく書くのは不可能だろう。さらに、「幽玄」な「境地」という面では永田耕衣の影響(「いづかたも水行く途中春の暮 耕衣」⇒「磧にて白桃むけば水過ぎゆく 澄雄」)の可能性を指摘し、技法面では過去の俳句遺産の活用において寺山修司との共通点を見出し、写生を越えたスタイルを赤尾兜子(「大雷雨鬱王と会うあさの夢 兜子」⇒「みづうみに鰲を釣る夢秋昼寝 澄雄」)に学んだのではと推測する。私個人は、これまで森澄雄の句にピンと来ることは少なく、なんだか掴みどころがない人だなあと思っていたのだが、下のようにまとめられるとなるほどと膝を打つところがある。

この句(「寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ」)は、ある意味で澄雄が正岡子規以来の客観写生の呪縛から抜けた瞬間だといっていいでしょう。写生とは徹底的に「実」を写し取る技術だからです。同時に虚子及びその一党にとって、写生は信仰でもありました。写生は何かを表現するための技術ではなく、写生そのものが表現でした。写生は方法であるとともに目的でもあったのです。

もちろん、そうした写生に対する批判もありました。前衛派と呼ばれる俳人の多くは、写生を頭から否定しました。写生を否定することで、虚子を否定しようとしたのです。でも俳句にとって写生はきわめて相性のよい技術でした。その写生を否定することは、大事な技術を封印することにつながります。これは大衆的な展開をする上で大きなハンデとなりました。前衛俳句が大衆的な支持を受けなかったひとつの要因はここにあるとわたしは思います。

これに対して澄雄は写生をひとつの技術にまで後退させました。その上で自分の境地をあらわすための武器にしたのです。これはコロンブスの卵でした。これによって澄雄は伝統派の反発を買うこともなく、しかも客観写生の呪縛から逃れることに成功したのです。

先に人選について書いたが、一冊を通して読むと、俳句ジャンルの展開が十分に、太い線で描き出されている。もちろん、他の視点から書くことも可能だが、近代以降の俳句「文学」の「古典」として、ひとつこの筋を抑えておけば、という信頼度は高いように思われる。

ただ少しばかり憂鬱に感じるのは、飯田龍太以降の作家をとりあげて、同じような骨太の作家=ジャンル論を書くのは難しそうだな、と感じてしまうところだろうか。描き出されるのが、ジャンルの展開が「個人」という単位を本質として動いたひとつの幸福な時代(「近代」という語が頭に浮かぶ)であり、そして、それはすでに過去のものに思えるという意味で、これはやはり「古典」についての一冊であるという気がするのだ。

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