俳句時評 第77回 湊圭史

「川柳カード」創刊号/高山れおな句集『俳諧曽我』

「川柳カード」が刊行された。伝統にのっとりつつ、川柳の現在形の表現を追求しようという意志のあるメンバーが同人として参加している。私も同人として参加しているので、手前味噌ではあるが、面白い作品が載っているので、少し多めに紹介してみる。同人作品から、

意は言えずそもそもヒトの位にあらず   きゅういち
乙女等は樹下に無音の鈴を振る
パサパサの忍び難きが炊きあがる
 
おとといとさきおとといの眼玉です   松原千秋
ほのかに甘いあかんぼの手足
 
罪人をパン粉まみれにしておいた   井上一筒
 
足で蹴るお仕事だから蹴らなくちゃ   草地豊子
自転車がしばらく話しこんでいる
 
人形は死なないようにできている   榊陽子
 
諸事情を越えて来るのはベートーベン   一戸涼子
 
上書きをした理科室にシがにおう   飯島章友
 
後ろ向きの首から足首までの夜   広瀬ちえみ
背を割って生まれるようこそようこそ
 
デュシャンの泉の前立腺肥大   平賀胤壽
左手が国産レモン絞り切る
全身が死体の猫の喪が明ける
 
合わせ鏡で見る背中のバーコード   丸山進
心中の生死を分けたコラーゲン
ファスナーの悲鳴は秋の季語ですか
 
夕焼けに箪笥の中の首に会う   くんじろう
女先生も百足を食べている
液化した狐とぬくい飯を食う
 
さてはじめるか宇宙地図二〇〇〇円   兵頭全郎
月からの俯瞰 引退会見乙
オリオンの腰に回した手のやり場  
 
ゆっくりと膝にからまる遠い舟   畑美樹
息を吐いて球体をあたためている
 
アネモネを腕の名残りに挿しておく   清水かおり
水音は三日三晩 言葉はいけない
 
歳時記の向かいに自動販売機   筒井祥文
どこへ行くのかライオンが歩いている
とある日はポスター展を抜ける犬
 
駅前のワニを見る人見ない人   山田ゆみ葉
 
変節をしたのはきっと美の中佐   小池正博
来てくれないか半眼の芋煮会
百アール蘭植えてから疾走する

樹が枯れて深いところで舌を出す   前田一石
森は騒いで読みさしの本を積む
またしても深夜のコンビニで踊る
 
値がついてみかんの生の第二章   石田柊馬
人を泣かせにいくときのみかん
手術室のそのまた向こうにあるみかん
 
閉じること出来ぬ眼がありあふれる光   野沢省吾
痰をとる そのとき動く人であり
 
とりあえずファイバースコープ送り出す   浪越靖政
デフォルメのままコンビニに紛れ込む
 
死にたれば土竜出てきてよく遊ぶ   石部明
鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず
音楽学校までついてくる水鰈
 
整理箪笥の上から下まであかいろ   樋口由紀子
オルガンにそっくりだよと言われたい
 

現代川柳の表現に馴染みのない方が読まれるとどうかは分からないが、かなり幅のあるスタイルが揃っていると思われる。日常レベルの事象と語彙を切り取ることで現在を生きる実感を手わたす松原千秋や草地豊子、そこから虚構性を用いることで一歩踏み込んで生活のただ中の非日常性をとりだしてみせる広瀬ちえみや清水かおり。現代の女性短歌にも通じる抒情性をたたえた畑美樹。ありふれた事象から言葉の芸で軽やかな批評性を見せる筒井祥文や石田柊馬。丸山進や浪越靖政の表現は一般ジャーナリズムで流通する川柳と同位の通俗性から簡単に笑い飛ばせないおかしさをとりだし、野沢省吾は逆に重いテーマをドキュメンタリー的に十句に定着させている。アナクロニズムを累乗して批評性にまで強めたきゅういちや、宇宙という統一テーマを口実に現在の断片を散乱させる兵頭全郎には一句に留まらない表現意図がある。ノスタルジアから独特の実感のあるストーリーを感じさせるくんじろうは、現在では貴重になった厚みのある俗っぽさを体現している。もう少し、狂句ゆずりの言葉遊びの句があってもよかったなと感じたが、会員作品中に、

オオムはロビンソンクルーソーはおおむ   松本藍

を読むことができた。

句作品以外では〈現代川柳の縦軸と横軸〉というタイトルで特集があり、「縦軸」には堺利彦の「川柳論争史(1)「主観・客観表現論争」」が、「横軸」には拙論が置かれている。堺の一文は評論が弱いジャンルである川柳に歴史から視座を与えてみようという試みだ。明治後期から大正にかけての「新川柳」「新傾向川柳」論を当時の柳誌にていねいに読み込んでいて、主観/客観という用語を軸に近代川柳が何を得、何を切り捨てたのかが明らかにされている。拙論は2000年代の短歌・俳句の表現と現在の川柳をくらべて、現代川柳の表現レベルを探ろうとしている。

他ジャンルの方々にとっての目玉は、9月に開かれた「川柳カード創刊記念大会」での俳人・池田澄子と樋口由紀子の対談(樋口による池田澄子ロング・インタヴュー)が掲載されていることだろう。すでにその内容は簡単にこの「詩客」で9月に報告させていただいているのでここでは取り上げないが、樋口の発言に気になるところがあったので、上記の「川柳カード」同人における作風・スタイルの多様性にからめて考えてみたい。樋口は、池田澄子著『休むに似たり』から「少しの言葉で成り立つ俳句は技が恃みであり、取り立てて技と思わせない技をこそ必要とする詩形式である」という言葉を引いて、次のように述べる。

樋口 川柳は技法とか修辞とかはあまりこだわらないですね。伝わってわかればいいとい感じです。そこが違うみたいです。

「川柳は~」と断定的な発言をしているが、同人の中でこの意見に同意するのは多数派ではないのではないかと思われる。例えば、小池正博は会員作品評で、「日常の言葉はどのように川柳の言葉になるのだろうか。日常語を生命とする川柳は口語表現をそのままポエジーにしなければならない。どこかで川柳にしなければならないのだ。」と書いているが、「どこかで川柳にしなければならない」というのは言い換えれば「技法とか修辞」に拘らざるを得ないということだろう。樋口にはどこかで作品制作における作為性を忌避する意識があるのだと思われるが、私自身の考えを述べれば、575音やそれに似た音律に表現を限定しようという時点で「技法とか修辞」が不可避なのだ。また、俳句は「取り立てて技と思わせない技をこそ必要とする詩形式」とする池田の見解を読んで、川柳は「技を取り立てて見せることでこそ読み手を納得させる詩形式」なのではないかとも思えるのである。その根拠は?、というならば、上に引いた川柳句を読んでいただきたい。樋口の句も含めて、修辞が修辞であることを隠そうとしているとはとても思われない。むしろ、その逆である。

というわけで、実作においても、川柳についての考えかたも、同人間でかなり開きがある。これは悪いことではないと思う。もっともどこかで衝突やすり合わせが起こるのではなく、みんな仲良くだけで続いてゆくとすれば(最近はどのジャンルでもその傾向があると思うが)、退屈なほうへ流れてゆくかもしれないので、同人の端くれとしては、たまにはこのように混ぜっ返してみようかと思う。それにしても、考えてみれば、川柳そのものが「混ぜっ返し」のための文芸ではないかという気もしてくるのです。それにしては、「川柳カード」創刊号は大人しすぎるのではないか、と。川柳の幅は広いですが、全体的に時代に流れて、流されてのなあなあが見えるので、もっと「反時代的」(なんと古典的な形容詞!)な表現が生まれてくればよいと思うのですが…。というか、私も当事者ですわな。

などなど、考えていると、とんでもなく「反時代的」な書物が手元に舞い込んできました。高山れおなの『俳諧曾我』。「目録+開題」も含めると8冊に分かれた装丁はそれ自体、現代の「句集」についての爆弾的批評でしょう。内容も、曾我物語、「長靴をはいた猫」に基づく連作から、作者お得意の前書付き俳句集、「パイク」(≒横書き俳句)集と、「技法と修辞」、それに、浪費的な教養・情報の氾濫からなっていて、「修辞や技法」を目立たせない穏便な現代俳句の風景に波風を立ててくれています(この波がどこかにどんどん波及すればいいですが、それはない、のかな?)。それに読んでいると、著者が「個体発生は系統発生を反復する――そんな生物学の古い学説を、俳句で実践したらどうなるかと、かなり前から考えていた」と言うように、俳句史に対する愛情に満ちたオマージュであることも見えてくるのですね。そのあたりは、俳人の詳しいコメントをどこかで読みたいところです。ペロー「長靴をはいた猫」に基づく連作「侯爵領」(このタイトルも、いわずもがな、髙柳重信『伯爵領』にかけられてますね)の最後の句、

金泥もて写さむ 絡まる根 オヱ!

これは、入沢康夫の名詩集『わが出雲・わが鎮魂』から。「パイク・レッスン」の

E.Pの墓守(も)る百億の昼の蜥蜴(ドラゴン)

のE.Pはもちろん、エズラ・パウンド。こういうのを俳句のなかに発見するのが楽しい、というのは、俳句界ではあるんでしょうかね、さて? (私はとても楽しいです。)

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