俳句時評 第75回 山田耕司

俳諧は足りていますか?

        記念写真を一枚だけ。もちろん「ダンテの家」の前で。
        はいじんだもの。

俳諧師われはも澄めり無に近し

                高山れおな句集『俳諧曾我』所収「フィレンツェにて」より

まずは引用。

黛まどかほど毀誉褒貶の渦中にあった俳人も少ないのではないだろうか。なぜか。それは、まどかが、メディアに対しても、俳人に対しても、当初より媚びる必要のない位置を確保していたからだろう。このことは、まどかにとって至幸のことであった。が、その分、俳人仲間の嫉妬、風評の対象となった、ということだろう。なぜならば、多くの俳人たちにとって、俳句という文芸を探求すること、楽しむことよりも、メディアに登場することの方が、より大きな関心事であるからであろう。

「俳句界」11月号 小特集「黛まどかの今」 「私的黛まどか小論」より

筆者は復本一郎氏。因果関係をつきつめながら論じていくスタイルをとっているようだが、論拠が妄想のようなものなので、文意がよくわからない。どうも復本氏にとっての俳人とは、メディアに登場するために媚びまくる愚かな存在らしいのである。「媚びる必要のない」黛まどかを絶賛しつつ文章は続く。

今年(2012)3月、まどかは、句集『てっぺんの星』(本阿弥書店)で見事にその成熟ぶりを示した。凝視する「写生」の句作りは、俳句の本道を一歩一歩、完成に向かって確認しつつ試歩している感がある。おおむね無技巧な句作りであるのもいい(時に平成俳壇の「わる巧(ごう)」の影響を受けているかと思われる作品もなくはないが、きわめて少ない)。

俳句の「本道」というものがあり、「完成」という状況があることを疑わない姿勢がうかがわれる。平成俳壇の「わる巧(ごう)」というものがどういうものか具体的には分からないが、必要以上に技巧に走っていること以外に、推測の情報は与えられていない。ここでも、彼が推挽するまどか女史を高めるために補集合たる他の俳人(具体的な情報はない)を蔑みおとしめて文は続く。

啓蟄の墓の大きな湯呑みかな
さくらさくら背らに母の杖の音
梅干して母に増えたる独り言
昼酒は人肌がよし西鶴忌
階段の斜めに減つて晩夏光
八月十五日セーヌのきらめきに
初笑ひ通訳されてやうやくに

「写生」を基盤に、実情・実感を外連味なく詠んでいて気持ちがいい。いずれも媚びる必要のない立ち位置から生まれた作品であるからであろう。

ここでも「媚びる必要のない立ち位置」が出てくるのだが、どのあたりがそれに該当するのかが、示されてはいない。おそらくは「写生」+実情・実感(人としての本音らしきもの)というあたりが「媚びる必要がない」という部分の裏書きになっているようである。

まどかは「あとがき」(句集『てっぺんの星』:山田註)に

いずれの活動もどこかで俳句につながり、わたしの人生を豊かにしてくれている。病でさえも、やがては俳句に帰結し、昇華する。実にありがたい表現形式であり、これこそが俳句の底力だと思う。

と記している。紛れもなく、日本を代表する俳人の一人として成熟しつつある。

だそうである。

この文章を引用したのは、黛まどか氏への評価をおとしめたり、復本一郎氏の文章を批判するのが主旨ではない。現代の俳人の評価のあり方、俳句への考え方の特徴を管見するうえで、復本氏の文章のカタヨリ方に学ぶものが多かったが故にご紹介した次第。

  • 作品そのものよりも他者への姿勢こそが作家の価値を生む。
  • メディアに登場するためには媚びる必要がある。
  • 「写生」とは重視されるべきものである。
  • 「技巧」とは基本的には排除すべきものである。
  • 人生の反映として俳句をつくることが望ましい。
  • 俳句作家には歩むべき特定の「道」がある。

このように仮まとめさせていただこう。

これは、必ずしも復本氏に限ることなく、現代の俳句および俳人をめぐる評価の傾向につながるところ、少なからず。では、何がこうした傾向を招いてしまうのであろうか。

端的に言うならば、俳句において「俳諧」的な側面を排除あるいは矮小化してきてしまったことの結果が、その傾向の源にある、と山田は考えている。

「俳諧」的とは、「江戸趣味」という意味ではない。近代を「個」を重んじ「自我」を思考の基幹とするものだとしたら、「俳諧」的とは、ひとつの「個」なり「自我」なりに拘束されないことであり、であるからこそ作者の人生の重さから解放され、ひいては対人関係の緊張を遊びに転化しうるほどの柔軟さを示すところの言葉への向かいあい方、を指すことにしようか。

俳諧の連歌は、他者との共同作業。ここにおいて「個」が持ち出された場合には、それこそ「二の句が接げない」のである。連歌は自ら予想しない役割を演じなければならない場でもある。先行する句の世界観をひきうけつつ屈曲させる。そこで求められるのは、作者の人生の披瀝ではなく、言葉の関わりあいそのものに身を委ねつつ溺れない知的配慮にほかならない。回ってきた句を成し遂げるには「仮の」主体を演じきる必要がある。その演じているわたしの奥には、そうした演技をまかなう核のような人格がある。実人生における体験の厚みも、その直接的な反映ではなく、多様な「わたし」をどのように言葉の上で活かすのかという技術的配慮に還元されてこそ、「誹諧」的な思考と呼ぶことができるのではないだろうか。

俳諧の連歌において、いうまでもなく発句は当季、すなわち五感が体験している季節をもって句に読み込むことが挨拶として求められはしたものの、脇句を経てそこから先は、季をめぐらさなければならず、当然、作者は五感で体験しているものとは違う「仮」の世界に足を踏み入れざるを得ない。季語とは、そうした「仮」の世界を互いに共有するための約束ではあっただろうし、であるからこそ、季語という「情報」に対して、五感を通じて得る一回性の高い「発見」が、和歌からの記憶も内包する情報としての<季>に対しての<俗>として機能するというおもむきもあったことだろう。

いや、なにも俳諧の時代を賛美したり、俳諧の方法をこそ聖域として保護しようというわけではない。

ただ、懸念しているのである。俳諧は足りてますか、と。

写生とは、たんに写実的ということではなく、「情報」に対置させることで活きる「発見」の謂いではなかったのか。技巧をひっくるめて嫌悪することが純粋さにつながるならば、作者とは、リアルな体験を重ねつつそれを報告する役割しか与えられないことになるのではないか。そして、俳句に歩むべき道があり完成形があるのだとしたら、その上、表現の遊びを封印し、作品には作者の生き方の反映を求めるのだとしたら、その行く先において、俳句作者とは俳句作者らしい人生をストイックに歩む求道者として生きるしかなくなるのではないか。作者の人生の反映をこそ作品の重みとし、作者の態度を以て作品の価値を評価するのは、俳句形式が内在させる可能性を制限し、個人の営みを類型化させ、つまり、俳句形式を内部から侵蝕することにつながるのではないか、と。

メディアへの登場とは、すなわち、俳句とかかわることそのものを、自己イメージの拡大という快楽に置き換える消費活動として位置づけ、すなわち、内面性への求道を放棄する「不純」な印象を与えられているようである。しかしながら、どのように露出しようが、露出しまいが、つまりメディアとのかかわりがいかようであれ、自己をかけがえのないものと捉えている人がそれにふさわしいもてなされ方を求める限りにおいては、そのもてなしへの希求は尽きることが無いだろう。一句、もしくは句群の評価ではなく、人間としての姿勢や物語を以て評価を求める限り、その人の心は満たされることは無いだろう。作品表現ではなく、志(こころざし)をして、作者の軽重をはかり俳句史なるものの系譜を作ろうとする者がいるとして、相互の力量や技術的な差異を考慮に入れることなく、自分が分かるようにもてなしてくれと注文を付けるモンスターシロウトとは、自己存在のかけがえのなさを基軸にして憚らないところにおいて通底しあうのではないか、とさえ思う次第。

つまり、個的なることと、個のかけがえのなさのようなものを去って遊ぶことと、その両岸のどちらかに居とどまることなく漂う、その寄る辺なさがあるからこそなしうる表現とが、俳句形式の内包する「底力」なのではないかと思うのではあるが、どうにも、「現代俳句のトップランナー(俳句界2012/11月号/p137)」たる黛まどか氏とそれに対する碩学・復本一郎氏の記事であれば、現代の状況への反省とともに愚考縷々。

「俳諧」といえば、

高山れおな、新句集『俳諧曾我』は、日本文学史において<事件>として記憶されるレベル。

ネタバレ的なことを避けるべく、具体的な紹介はこの稿では避けるものの、入手方法だけはここに記しておきましょう(アマゾンでも取り寄せることは出来ません/もたもたしていると在庫がなくなるんじゃないかと思います/おいそれと再版するわけにもいかないような仕様です)。

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