日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/07/16)

横はる吾は玉中ぎよくちゆうの虫にして琥珀こはくの色の長き朝焼け       『韮菁集』

葦原あしはらをかの如くに茂り立ちただ物々しま夏かぎろひ      『六月風』

斎藤茂吉は、短歌のおもしろさとか、良さというものは、読みはじめ、作りはじめてから、すぐにわかるというような性格のものではないと言っている。たとえば掲出した二首目の歌を読んで、読者が自分自身の経験と照らし合わせて、炎暑のなかの道をたどった記憶が、みごとに言葉となって言い表されているのを読み、ああ本当にこんな感じだ、実にうまく言ったものだ、という読後感を持ったりするというような経験を積むことを通して、短歌というものの良さはわかって来るという性質のものである。

私は四半世紀前に「未来」短歌会に入会して、土屋文明の歌を、戦後間もない頃にいっしょうけんめい読んだという世代の人々と、幸いに交流を持つことができた。その中でもっとも印象に残っているのは、正確には覚えていないが、「土屋文明の作品のことだったら、その表通りだけではなくて、裏通りのことまで知っている」という岡井隆の言葉と、同じく岡井の「(ただうまいというだけのものではない短歌を作るには、)『山谷集』なんかの、あの荒々しいところを一度通って来ないとだめなんだ」という趣旨の発言である。

これらの言葉に触れることによって、私なりに自覚し、茂吉のいわゆる「悟入する」ところがあって、食わず嫌いだった土屋文明の多くの歌集をだんだん読んでみようと思った。そうして何よりも、近藤芳美の著書『土屋文明論』(一九九二年刊)を手にしたことや、古書で買った同じく近藤の『鑑賞土屋文明の秀歌』(一九七七年刊)、さらに雑誌「歌壇」の土屋文明特集(石田比呂志が『自流泉』について書いていた)などが、私の土屋文明への関心を深めてくれた。

小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町(しじつちやう)夜ならむとす    『山谷集』

夏の光するどく空にうづまけり崩れ著(いちじる)き十津川(とつがは)の山       『往還集』

土屋文明の作品が持っている生々しい部分、力強くて、生きることにどん欲で、痛烈な反骨の精神のようなものを、私も受け継ぎたいと、若気の至りで思ったことがあったが、どうも逞しさの土台が違うという気がずっとしていた。そもそも漢文などの古典についての知識の桁が違う。それから生活というものの捉え方のスケールが違う。鰯の頭をがりがり囓って育ったのと、エクリチュールのガムをくちゃくちゃ噛んで育った者とのちがいでもある。

近藤芳美が、しばしば引用した文明の歌は、次のようなものだ。

白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか       『青南集』

 

これは米・ソの核実験が続いていた頃の歌である。福島の原発事故以後の今となってみると、この「白き人間」、原爆を生み、核兵器を作り続けている白人の支配する西欧文明国家への呪詛の歌を、これが作られた当時と同じような抗議する気持ちで読むことはできないのである。でも、この歌を、ただ反米・反核の気持ちを述懐しただけの歌と読むことは、できないのである。物事をもっと大きなスケールで文明史的にとらえる視覚のようなものが、この歌人にはあった。とは言いながら、この歌には戦後の進歩主義・革新的社会主義が持っていた反米意識も伏在している気がする。土屋文明は息子が共産党員だったから、左翼の思想にも理解はあった。けれども、「アララギ」の文明の高弟たちには自由主義的な精神の持ち主が多かった。私は、土屋文明は、アメリカ軍による占領という経験の中で、短歌形式と「アララギ」の存続を企図した歴史的な構想者であると思っている。戦後すぐは、現在のような比較的自由な時代が訪れるとは夢にも思わず、短歌が禁止されるような最悪の事態までも想定しながら土屋文明は活動していたのである。

戦後の日本人の多くがとらわれた「日本的なるもの」への自己嫌悪の念は、戦後詩を短歌の上に据えた。ところが歴史が一巡して、その戦後詩そのものが、かつての短歌のようになりかかっている。われわれの課題は、大きく重い。

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