俳句時評 第55回 外山一機

『俳句』は「俳句」である

筑紫磐井が『俳句』に「『俳句』60年を語る」という評論を連載している。角川書店の『俳句』誌が今年創刊六〇周年を迎えることを記念しての五月号から七月号にわたる短期連載企画である。すでに長編評論「「結社の時代」とは何であったのか」(「俳句樹」二〇一〇・一〇・一〇)などにおいて『俳句』に言及してきた筑紫であるが、その第一回では「問題提起と俳壇秩序」と題して「戦後派」やそれに続く世代の可視化、あるいは社会性俳句などの関わりについて述べている。

現代俳句史においては、角川の『俳句』は、社会性俳句、造型俳句、前衛俳句をプロデュースしたとされるが、それは必ずしも一方的なプロデュースではなかった。編集部が関与しながら発展しえなかったテーマとして、俳句滅亡論、根源俳句、叙情・写生(もの)・風土、(造型に対する)諷詠、リズムなどがあるし、社会性俳句が紆余曲折の中で進展したり、前衛俳句もそのネーミングと展開は必ずしも単純なものでなかったことは既に述べた通りである。ジャーナリズムは単純に作者や評論家をリードするものではなく、読者・作者と玉の投げ合いを繰り返しながら内容を深めていったのである。

たとえばいま総合誌のなかに俳句史の現在を見出すことは期待しがたい。実際「60歳からの俳句入門」(二〇一二・五)、「「調べ」を磨く10の方法」(二〇一二・四)などを特集記事として設定する『俳句』がかつてとは異なる方針によって駆動していることはいうまでもない。しかし、その転向の原因をたんに総合誌の志の変化や俳人の力量の低下にのみ求めることはできまい。そもそも総合誌とは、必ずしも俳句史の展開を期待する場のことではないのかもしれない。また、そのような期待の創成こそ、実はきわめてジャーナリスティックな戦略のひとつであったかもしれないのである。とすれば、総合誌が俳句史の構築に向かおうが初心者向けのガイドブックとしての色合いを強めようが、結局意匠の問題にすぎないように思われる。ただ一方で、同世代が評価・検証する本格的な特集が組まれないままの昭和五十年代後半の新人たちの評価について、筑紫が「現在までのところこの世代の評価は定まっていない。これを補うのが総合誌の役割であるだろう」(「『俳句』60年を読む② 新人の歴史」『俳句』二〇一二・六)と述べているように、商業ベースにのって流通する総合誌という巨大なメディアが俳句史に負う役割に無批判であってよいはずもないのである。

そしてようやくこの局面において、僕らは、商業的な意味において成立しなければならないという前提を抱え込んだ総合誌としての『俳句』の姿に立ち至る。それにしても俳句史において、メディアにおけるこのような問題は比較的新しいものではなかったか。ことに『俳句』においてはその歴史は直近の六〇年間のことなのである。むろんこれだけの長い年月をもっているものに「歴史」がない、といいたいのではない。しかしながら総合誌という、いわば商業的側面に配慮しつつその志を持続するという問題を常に抱えているというメディアは、俳句史にとっても新しい問題であったのではあるまいか。

それにしても、俳壇において、きちんとお金を出さなければ買えないような句集や俳誌はどれだけ流通しているのだろうか。十年あまり前に俳句に関わり始めたころの僕が俳壇というものについてぼんやりと疎外感を抱いていたのは、どのような句集がいつ出版されているのかという情報がきわめて入手しづらいことに加え、一部の人間にばかり句集が殺到する「献呈」というシステムが機能しているように思われたためであったが、これは句集に限ったことではなく、結社誌や同人誌についても同様のことが言えよう。著名俳人に(むろん本当に読みたいものは購入するにしても)否応なしにこうした「献呈誌」「献呈本」が送られてくるのはむしろ俳壇の常識であろう。もちろん、結社や同人が自らの所属する場に定期的に費用を納入しているという意味ではそこにお金が発生しているのだけれど、それは半ば自らのために出資しているのである。少なくとも俳壇において紙媒体の刊行物を他者に「売る」ということは極めて困難で、かつ例外的な事象であるとさえいえるのではあるまいか。実際、句集や主宰誌を自費に一切頼らずに「売る」ことのできる俳人がどれだけいるというのだろう。僕たちは当然のように自らお金を出して句集を「献呈」する/されるということを経験しているのであって、むしろこれこそが俳壇の日常ではなかったか。

話を戻せば、「売る」ことと文学的な志とのはざまで葛藤したという意味では、明治末期の『ホトトギス』もまた同様であったが、虚子主導の結社誌としての『ホトトギス』と『俳句』とではおのずとその切り抜け方も異なっていよう。さらにいえば、『俳句』の六〇年とは、その多くの期間が、俳句表現史的な意味あいにおいて後退戦を強いられるなかでどこに着地点を見出すべきかという問題に直面せざるを得ない歴史でもあったのだ。そして結論からいえば、そのような状況のなかで『俳句』は初心者向けの俳句入門のような企画や有力結社の特集へと傾斜していったのだった。

ところで、このような軌跡をたどった『俳句』と比較しやすいもののひとつに、書肆麒麟(のち弘栄堂書店)の『俳句空間』がある。『俳句』において「結社の時代」が唱えられた一九八六年に創刊された『俳句空間』は、一九九三年に第二七号をもって休刊するが、高柳重信編集の『俳句研究』の理念を継承すべく創刊された同誌は第二七号の「現代俳句の可能性」という特集からもうかがえるように、俳句表現史を見据えて展開した総合誌であった。ここで『俳句』と『俳句空間』とを対照的にとらえることはたやすいけれど、ことはもう少し複雑であるように思う。『俳句空間』の創刊前後の数年間は『俳句四季』、『俳句とエッセイ』、『俳壇』、(角川グループによる)『俳句研究』などが次々に創刊された、総合誌の乱立時代でもあった。そこでは良かれ悪しかれ「新人」の需要があり「新人」の俳句表現の需要があったのである。そして昭和五〇年代後半の新人たちの俳句表現とは彼らにスポットが当たるようになった時代状況と不即不離のものであって、いわば供給者であると同時に需要者であるような彼らの奇妙な位置は、そのまま俳句表現にも影響しているように思われる。実際、長谷川櫂、小澤實、岸本尚毅、さらには田中裕明にまで通底する形式美の追求姿勢は俳句形式の需要者としてのそれであろう。このような事態にはもちろん問題もあるけれど、彼らの俳句表現には非『俳句空間』的な土壌によるものが少なくない。そして彼らに続く世代もまた彼らに少なからぬ影響を受けて出立しているのであるならば、『俳句』対『俳句空間』というような二項対立的な図式は俳句史的に見てほとんど無効であるように思われるのである。たしかに僕らは『俳句』を前にしたとき、「これは「俳句」ではない」と批判することができる。しかしその批判が正当なものでありうるとしたら、それは僕らが、その批判の言葉をそのまま反語として甘受するときではあるまいか。

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