自由詩時評 第1回(野村喜和夫)

時評2011年4月 野村喜和夫

 この春は深い慟哭と不安と怒りのなかで過ごした。折口信夫の言葉を借りれば、「海山のあひだ」、そこに私たち日本人は生活の場をもとめてきたが、それが根こそぎ巨大津波に持ち去られてしまったかのようだ。くわえて原発の事故。この二重のカタストロフによって、私たちの社会システムや生活様式そのものが一からの再考を迫られているといえるだろう。こうした状況をふまえて、ひとによっては戦後になぞらえて「災後」と呼んだり、9・11になぞらえて「3・11」と呼ぶ向きもあるようだ。

 詩に何ができるか。社会が危機的な状況になると、必ずそのような問いが立てられる。だが、おそらく答えはない。詩はひとりの飢えた子供すら救うことはできず、しかし同時に、数えきれぬ人々に生きる希望を与えることもできるのである。というか、そもそも詩に何ができるか、という問いの立て方自体がまちがっている。どんな状況であれ、詩的言語は詩的言語として、詩のテクストは詩のテクストとしてはたらくしかないのだ。まずそのことを確認しておきたいと思う。それと関連して、一般に、詩人は現実に直面して、即座に反応するのは苦手だ。経験をいったん内的に沈めて、そこからふたたび浮かび上がってくる言葉を書き取らねばならないからである。詩はいわば、もっとも深められた証言なのだ。

 とここまで書いて、「現代詩手帖」5月号が届いた。「東日本大震災と向き合うために」という大特集が組まれている。なかでも目につくのが、44ページ一挙掲載という和合亮一の「長篇詩」、「詩の礫」である。

 福島県の被災地に住む和合亮一は、震災後数日を経て、猛烈な勢いで言葉を発信し始めた。そしてそれをリアルタイムで多くの人々が受け止め、詩の世界以外にも静かな反響を呼ぶまでにいたっている。もちろんそんなことは従来の紙媒体では起こりえない。和合が拠ったのは、インターネット内の、「140字のつぶやき」ともいわれるツイッターだ。そのつぶやきに音を重ねるように、自分の発信を「詩の礫」と称し、怒りも悲しみも、孤独も不安も、全部ストレートに打ち出すことになったのである。なかには読むこちら側が恥ずかしくなるような直情的すぎるフレーズも含まれているが、もともと自然発生的に機関銃のように詩的発話を繰り出す和合の詩風が、ツイッターの即時性にぴったり合ったという感じだ。詩の種子ともいうべき言葉の律動も随所に感じられ、たとえば「余震」という言葉がくり返し呪文のようにあらわれて、それが逆に和合の発話を突き動かしているかのようにもみえる。そのあたりはなかなかスリリングで、読者をぐいぐい引き込んでゆく。

 被災地から届けられた生々しい詩的ドキュメントとして、「詩の礫」は紙媒体においても十分に発表に値するだろう。その意味で編集部の英断をたたえたいとは思うが、しかし、これを称して「長篇詩」と呼んでいいかどうかについては、留保の気持ちが残る。むしろ私にとって意味深いと思われるのは、今回の掲載分には入っていないけれども、タイトルの「詩の礫」が、4月10日以降、鎮魂とも通じる「詩ノ黙礼」に変わったことだ。その日、和合はより深刻な被災地を訪れて言葉をなくし、「黙礼」することしかできなかったのである。おそらくこの沈黙、この「黙礼」からこそ、さきほどもふれた詩というもっとも深められた証言が始まるのではないだろうか。

 同誌でもうひとつ目についたのは、小笠原鳥類の文章である。震災特集のなかに組み入れられているにもかかわらず、ひとりそっぽを向くようにして、震災とは何の関係もない朱位昌併という新人の作品を読み解いているのだ。小笠原は甚大な被害を受けた岩手県釜石市の出身だけに、余計に不思議な印象を与える。おそらく、慟哭や不安の度合いはほかの書き手と同等か、あるいはそれ以上であろう。それでもあえて震災への言及を避け、詩のテクストの読み解きに徹しているのは、なにかひときわ心を打つものがある。彼もまた危機を生きているのだ。全体が重く沈み込むような特集ページのトーンのなかで、詩をそれ本来の軽やかな高みのほうへ、笑いと踊りの渦巻くニーチェ的な快活さのほうへと、ひとり必死に引き上げようとしているのである。

 最後に、和合と同じ福島県出身のベテラン詩人、長田弘のデビュー詩集『われら新鮮な旅人』(みすず書房)が復刊されたことを伝えておこう。1960年代の詩的青春を代表する伝説の一冊だが、革命幻想の潰えたゼロ地点で表現を引き受けようとする若き詩人のみずみずしい抒情は、同じような白紙還元状態に晒された私たちにも不思議な勇気を与えるかのようだ。「ぼくは既にして、誰も愛していない青年です。/そしてまだ一篇の詩も書いたことのない/詩人です。」そう、私たちもまた、「既にして、誰も愛していない」者として、「まだ一篇の詩も書いたことのない」者として、いまここに立ちつくしているのだ。

執筆者紹介

野村喜和夫(のむら・きわお)

詩人。1951年埼玉県生まれ。早大文学部卒。

戦後世代を代表する詩人の一人として現代詩の先端を走りつづけるとともに、小説、批評、翻訳、朗読パフォーマンスなども手がける。

詩集『川萎え』『反復彷徨』『特性のない陽のもとに』(歴程新鋭賞)『現代詩文庫・野村喜和夫詩集』『風の配分』(高見順賞)『ニューインスピレーション』(現代詩花椿賞)『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』『スペクタクル』、『ZORO』、評論『ランボー・横断する詩学』『散文センター』『21世紀ポエジー計画』『金子光晴を読もう』『現代詩作マニュアル』『オルフェウス的主題』、CD『UTUTU/独歩住居跡の方へ』など多数。

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One Response to “自由詩時評 第1回(野村喜和夫)”


  1. 石川順一
    on 7月 12th, 2013
    @

    詠みました。一通(ひととお)り。

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