自由詩時評 第6回 森川雅美

メルトダウンしました 森川雅美

 「ついにメルトダウンか」と思ったら、「とうのむかしにメルトダウンしていた」という、お粗末のな情報が流れたのは、つい先日のことだ。

「いつかはするだろう、あるいはすでにしている」と思っていたが、「まさかそんなに早く」

とは思わなかった。われながら危機感覚が鈍っていたことに呆れてしまう。

 このように「メルトダウン」が表明されると、日々刻々と変わっていく状況が、私たちの「いのち」そのものに深く関わってくる。毎時何マイクロシーベルトの放射線が降ってくるのか、食べものや水がどのくらい汚染されているのか、東日本に住んでいる人たちにとっては、明日の生存に関わる問題である、というのは正直なところだ。評論家の芹沢俊介は講演で、この状況を「絶滅の脅威」という言葉で表現した。この言葉は心理学の用語で、「絶対依存状態の赤子が、母親から拒絶された時に起きる状態」ということだが、「生死の認識以前の個を越えた、根本的な消滅の恐怖」ということだ。私たちが曝されているのは、まさに個ではないより大きな死(消滅)の不安だ。曝されているのはより広い意味の「いのち」であって、「生命」ではない。

 このような状況は、戦争に直接関与せず、多くの伝染病も絶滅したり治療法が開発された、ごく短い凪のような世界に生きてきた、私たちにとっては、今までにない経験だ。もちろん、歴史を紐解けば、伝染病や戦争など、「いのち」が脅威に曝された時代少はなくない。むしろ、そうでない時代の方が短かったくらいだ。ヨーロッパでは黒死病で、人口の三分の一が亡くなったことがるあるし、縄文人の衰退は伝染病だったというのが有力な説だ。近いところでは、つい数十年前の二つの世界大戦に直面した人たちも、そのような危機に立たされていただろう。

 しかし、「絶滅」は脅威であると共に、興奮を引き起こすことも否定できない。不謹慎ではあるが正直なところ、「メルトダウン」という言葉を聞いた時、私は何かいいようのない高揚を覚えた。高村光太郎は太平洋戦争開戦の時に、以下のような詩を書いている。その末尾を引用する。

老若男女みな兵なり。

大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

世界の歴史を両断する

十二月八日を記憶せよ。

 すべてとはいわないが、多くの詩人や歌人、俳人も、同じように興奮した作品や言葉を残している。例えば佐々木信綱は、「元寇の後六百五十年大いなる国難来る国難来る」、という作品を発表している。もちろん私はこの詩や短歌を肯定はしないが、だからといって、湧きあがる負の高揚を否定仕切ってしまうことにも、頷くことができない。もちろん安易に比較はできないが、私の感じた、体の深い部分から湧き上がってくる暗い欲望も、この高揚と地続きだろう。

 特に、短歌や俳句と違い自由詩は文字通り、明確な定型を持たない。とするならば、言葉は最も原初的な、人間の感情や思考として表されるだろう。とはいえ、開戦時の詩から学ぶことは、言葉には何らかのストッパーがなければならないことだ。定型が私を書きながら、私の感情を越えた意識であるのも、このこと関係している、といっても良いかもしれない。感情のリズムを描きつつも、流されることない表現、自由詩はそのような場所に成り立つと、少なくとも私は考えている。

 いまあまりに多く話題になっているので、本当は取り上げたくないのが、やはり「震災後」の詩を語る上で、和合亮一の一連の言葉を、取りあげないわけにはいかないだろう。ツイッターではヒューマンな部分が目立ったが、「現代詩手帖」に掲載された作品を見ると、まったく違った部分が見えてくる。確かに、良い人の部分は大きいが、よく読むとあの暗い欲望、奇妙な高揚も描かれている。例えばこのような一行。

腹が立つ。怒りが腹を立てている。

 そこに現れてくるのは、自分の欲望を見詰め抗おうとする、誠実な言葉たちだ。復興への語りかけでなく、その葛藤ゆえに言葉は力を持つ。しかし、状況は刻一刻と変化する。
「メルトダウンしました」
あとの世界である。

甘ったるくて反吐が出るわ、生涯、自家撞着の白夜夜行で、眠り続けるがいい、三文詩人め、文字が、詩が、一行一行が、言葉が、心が、ぶっ潰すが、怒りが、我という悪魔が、潰れたら詩は書けまい。

果たしてこのような言葉で、メルトダウン以降を表現できるのか。一見自らを批判しているようでありながら、どうしようもなく無垢な、被害の立ち姿が見えてくる。しかし、原発とは何だったのか。推進したのは私たち一人一人であり、その罪を背負わなければ言葉は記せない。それは自らの内の、開戦に高揚した暗い欲望をえぐることだ。

 もちろん、この文章は和合の言葉を否定するために書いているのではない。和合の一連の言葉は、何よりも震災で傷ついた自らと家族の、回復が一義であり、このような色調を帯びるのは、無理のないことだ。。言葉は誠実に回復の過程を追っていて、彼が真摯な書き手であることの証ともいえ、多くの人に届いたのはそのためともいえる。また、和合も変化する状況に曝されている。しかも、私の住む東京よりはるかに過酷な、原発事故のまさに中心の福島で生活している。誠実な書き手である彼は、常に現在に抗う言葉を模索し続けていると、信じている。

 などと書いている時に、「現代詩手帖」6月号が届いた。「震災後」に関する、最も被害の大きかった地域ではない詩人の、作品が何篇か掲載されている。白石かずこや野村喜和夫など、これが実にいい。多くを引用したいが、誌面の都合で、高橋睦郎の「いまここにこれらのことを」から、数行を引用するにとどめる。

嘆きの声がつまるところ嘆く者を慰め
流す涙がとどのつまり泣く者を浄める
けれども私たちは慰まない浄まらない
なぜなら私たちの嗟嘆と抗議の終(つい)の相手は
私たち自身であり私たちの強欲と怠惰そのものだから
私たちは簡単に慰められてはならないだろう
たわやすく浄められてはならないだろう
私たちは蔑まれつづけ打たれつづけなければならないだろう

 ぜひ「現代詩手帖」を紐解いて欲しい。
 また、この「詩客」にも藤井貞和の、現在と真剣に対峙する詩をいただいた。今号に掲載している。
 それぞれが現在と格闘する真摯な言葉だ。

 メルトダウンしました。

 もし私たちの多くが放射線の障害で、短命に終わったとしても、一つの誠実な言葉が置かれるなら、世界は終わらない。誰かがつながっていくと私は信じる。信じなければならない。
 詩人たちの模索は始まっている。

執筆者紹介

森川雅美(もりかわ・まさみ)

詩人。1964年生まれ。

「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」「44プロジェクト~同人詩誌販売ネット」各代表。「酒乱」「ムジカ」同人。詩集に『流れの地形』『くるぶしのふかい湖』『山越』『夜明け前に斜めから日が射している(近刊)』(すべて思潮社)がある。

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