自由詩時評 第10回 森川雅美

他者の言葉を生きる 森川雅美

 「メルトダウン」という言葉が頭から離れない。確かに、根底から溶解したのだ。しかし、溶解したのは何なのか。現象としては、「メルトダウン」したのは、福島第一原発であることは間違いないが、はたしてそれだけといえるのだろうか。そのことを考えるためには、原発の歴史を振り返ってみなければならない。
 原発がその根源を核爆弾と一にしているのは、いうまでもない。一九五一年のアメリカでの実験炉から始まる。五四年には旧ソ連が、五六年にはイギリスが、五八年にはアメリカが、それぞれ実用している。日本では、五四年に中曽根康弘らが、原子力研究開発予算を国会に提出し、翌五五年に原子力基本法が成立。五七年には、読売新聞社主でもあった正力松太郎が、原子力平和利用懇談会を立ち上げ、同年に科学技術庁初代長官になり、中心となって推進を行っている。それと同時に、五六年には、日本原子力研究所が東海村に設立され、翌五七年に、九電力会社などにより、日本原子力発電株式会社が設立される。六四年、東海村で動力試験炉が初めての発電を行い、翌六五年には実用化している。七九年のスリーマイル島、八六年のチェルノブイリの事故を経て、世界的に反原発の機運が高まったが、日本では今回の事故まで推進が続いていた。
 このように見ていくとわかるのは、原発が戦後社会の発展ともにあったということだ。さらに、日本では政財界が利権の問題も絡んで、強力に推進してきたともいえる。いわば、戦後社会の象徴の一つといってもいい。それが「メルトダウン」したのだから、溶解は原発だけでなく、戦後が育んできた価値観そのものといっても良い。そのことが、前回に書いた「絶滅の危機」の問題ともに、原発事故という現象が示した現在を、表現することを困難にしている。そんな時、「現代詩手帖」6月号の、神山睦美と安藤礼二の対談で、神山のこんな言葉に出会った。

まさに大津波はマレビトのようにやってきている。マレビトは、実は起源にある悪の力をもってやってくる。それから、あらためて共同体を祝福するために、善の力もってやってくる。だから、マレビトは、二度やってくると取ったほうがいいんです。よく言われるのは、マレビトがやってきて、共同体のなかで最も疎外された存在に憑くというのがありますが、これはいいんですね。それでもまだ善の影が残っていますが。しかし、最も疎外された存在、折口は空(うつ)なるものというのですが、この空(うつ)なる存在というのは、起源にある悪の力によって疎外されたんじゃないか。

 この言葉は大変的確に、現在の表現の問題に、一条の光を差し込んでいる。根源を善と捉えることによって、私たちは無垢の被害者という、陥没に陥ってしまう。例えば、「詩と思想」6月号の「東日本大震災」の小特集に掲載された、このようの詩は、まさにそのような場所に陥っている。

荒れ果てた港に放心した様に佇む少女よ
いつまでも絶望の淵を彷徨ってはいけない
こんなにも大惨事の中で生き残った貴い命
明日を信じて 奇跡の命の火を燃やせ
(稲場やよい「無常の時」部分)

 この詩はかなり極端だか、掲載された特集の詩は、このような語り口のものが多い。ここに現れているのは、根源を善なもの、無垢なものと見る被害者の目だ。しかし、このような視線からは何も見えず、あくまで、メディアに垂れ流された、偽善という認識をたどっているに過ぎない。このような詩が何万何億と書かれようとも、何一つ意味を持たない。詩は安易な認識を言葉にすることとはもっとも遠い行為なのだ。少なくとも小説のように、中心に、一般流通する物語のフレームをおかない以上、他者とのディスコミュニケーションという、困難を背負わなければならない。反面、他者とのつながりを切るわけにもいかない。では、どうすればいいのか。その応えの尻尾となる言葉を神山は、昨年刊行された、『小林秀雄の昭和』(思潮社)に記している。小林秀雄の著書を通して、昭和を俯瞰するのともに、人間の根源の善と悪、政治に向うメンタリティーなどを、透視した長編評論だ。言葉はほぼ巻末の結びとして記される。

 小林は、そう述べることによって宣長の「死の概念」にかたちをあたえる。注意したいのは、「死の像(カタチ)」も「この世の生の意味」も、決して孤独な魂のうちのみに宿るのではないということである。自分を深く問うことがそのまま自分を越えたものを問うことであり、自分を越えたもの問うことによって、この自分は他のたいするものとして現れるという精神のありかた、それを「物のあはれ」といっても「共同生活の精神」といってもいいのだが、そのような精神においてはじめてかたちをなすものということができる。そして、このどこにも「安心」を見出すことのできないところで交わされる「自然な挨拶」こそが、宣長の皇国思想をして、決して道を誤ることをさせない理由となるのである。

 長い評論の部分引用なので、分かりにくいかもしれない。また、この部分だけ引用しても、何ほどのことをいったことにもならない。とはいえ、ここには非常に重要なことが語られている。「自分を深く問うことがそのまま自分を越えたものを問うことであり、自分を越えたもの問うことによって、この自分は他のたいするものとして現れる」という部分だ。例えば、これを震災や原発事故、あるいは戦争などの痛みで考えてみよう。私はどのように突き詰めても、結局のところ、私以外の痛みを知ることはできない。同じ痛みなどはないのだから。しかし、私に痛みを問うことが、私を越えた低部でつながる、他者との痛みを共有することになる。それとは正反対に、先に引用した詩に現れたような、いかにも痛みを分かりあえるような、認識の詩はむしろ他者を殺し、全体性への帰順になってしまう。これでは、メディアで垂れ流しにされている、「日本がんばれ」のような言葉と、何ら変わりはない。そして、そこには魔が入り込む。神山の言葉でいうなら、嫉妬、怨望、ルサンチマンである。自らの正しさの上に発せられた言葉は、その正しさゆえに、他を否定する方向に陥る。他者の言葉の中でもう一度生きること、そして、「どこにも「安心」を見出すことのできないところで交わされる」ことこそが、表現の基本として求められる。

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