自由詩時評 第11回 福田拓也

 純粋な肢体、体躯、身体は他者たちの語り合いのさなかに生れ出る。自分独自の純粋に単独的な言語を創出した者は誰もいない以上、言語とは根本的に他者であり、「父祖」たちのものである。榎本櫻湖の「陰茎するアイデンティファイ ――あらゆる文字のための一幕のパントマイム――」には、「父祖」とその「浅ましい伝説」(「地響きとともに訪れる歪な父祖の肖像に、浅ましい伝説の痕跡を見いだす果ての」)、そして「父祖」のものであると思しき「陰茎」(「燭台には昨日燃え尽きたはずの陰茎が聳え、焔の代わりに蒼白い老爺の草臥れた胸像が揺らめき」)、「男根」への言及が見られる(「スカラベ、寂寥の噴煙に紛れた崇敬な存在としての男根の振る舞い」)。

 胸像を意味する「トルソー」は、この作品にあって、「父祖」の胸像と「陰茎」あるいは「男根」、ラカン的な意味でのシニフィアンとしてのファルスとも重なり合う一つの特権的な場となっているとも言えるかもしれない。しかし、次に引用する「トルソー」の連禱は、「発達した陰茎を誇示する不埒なトルソー」の「偽物」性と無力を露わにするばかりだ。「……トルソー、発達した陰茎を誇示する不埒なトルソー、慰め合うもののいない寂しいトルソー、癒しに餓えた真空管のなかのトルソー、立派な陰茎は射精しない、お飾りとしての勃起、なぜならそれは本物ではないから、偽物の、合成樹脂でできた陰茎の代替物にすらなれない突起、濡れることもなく、粘液が滴ることもなく、ただ愛撫するためだけの偽物の、いや、握るためだけの、突起物、先は丸まって、しかもラメ入りの黒だったり、群青に着色された透明だったり、まったくの無色透明だったり、それにしても顔もなければ腕もなく、足さえなく、中には製造されたときに封入されたままの空気、それから少しの塵、トルソー、いくつものトルソー、四百体ものトルソー、さまざまな色のトルソーが並んでいるのを、真っ暗な、たとえば大理石を組んだよくわからない舞台のうえで、トルソーは呼吸もせずに、ちんまりと、置かれてあって、(中略)ただ、どうして、精液に溺れることもできないのだろう、かわいそうなトルソー、死ぬこともできない、……」

 「夥しい精液という文字の海に溺れる」という夢がこれらの散文詩群を書かせているということは既に指摘した。そして、精液であるような文字を増殖させるためには、「陰茎するアイデンティファイ」である「パントマイム」によって精液以前の何かをして文字を「模倣」・「模写」せしめ、「精液という文字」を作り出さなくてはならない。この「身体による脱身体への試み」は、ラカン流の言い方をすれば、存在が自身の身体を「発達した陰茎を誇示する」「トルソー」というシニフィアンの位置に引き入れて行くということになろうが、しかし、「精液に溺れること」を目指していたはずのこの「脱身体への試み」によって、榎本櫻湖的存在はかえって「精液に溺れることもできない」という危険を冒すことになる。身体が精液的なものになるために引きずり込まれる位置、「父祖」的なものである言語、文字という場にあるものが、「射精しない」ものであり「精液に溺れることもできない」勃起するだけの偽物の陰茎である「トルソー」に過ぎないことは、このことをよく示している。精液的な文字の連なりを「模倣」・「模写」しようとする榎本櫻湖的散文詩は、言語の領域に入ることで「父祖」的な「浅ましい伝説の痕跡」を帯び「蒼白い老爺の草臥れた胸像」のごとき非精液的なものとなる危険を冒すという不可避のジレンマに晒される。

 こうしたジレンマを前にしての榎本櫻湖的解決策とは何であろうか。

 それはとりあえず両性具有的なものであろうとすることであると言える。散文詩の最後の部分が「《ヘルマフロディトスの顕現》」と題されていることからもそれは明らかだ。確かに、榎本はこの詩で、「男根」という語よりも「陰茎」という語を遥かに好んで用いているようだ。考えようによっては、「陰茎」の「陰」は陰陽の陰であり女性原理的なものであるから、「陰茎」という語は既にそれ自体両性具有的だ。また、この作品の最初の部分で、「陰茎」が「覚束ない花器として一輪のカーネーションを挿されて佇んでいる」ものとして、つまり、精液を噴き出すものであるというよりはものを挿し込まれる一種の女陰として提出されていることも想い起こすべきだろう。

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