自由詩時評 第14回 森川雅美

消滅した言葉のために

 最近、親しかった人の死が多い。昨年には、父が亡くなり、つい最近では、若いころお世話になった、詩人の清水昶さんが亡くなった。他にも、阿部岩夫さんや針生一郎さん、磯村英樹さんなど、若い頃にお世話になった人が亡くなった。2、3度呑んだことがある、若いアーティストが突然亡くなったという情報もあった。若い人は別として、歳なのだから仕方ないとはいえる。私が二十代の頃に五十代だった人は、七十代なのだから。知り合いが死ぬのは悲しい。しかし、あくまで死んだことが分かれば、それを受け入れることができる。しかし、たぶん死んだのだろうが、確かな死が分からない場合もある。

 私は新宿で遅くまで飲むと、いつも帰り道に西武新宿駅の閉じたシャッターの前を覗く。そこには一人の女性のホームレスがいた。たぶん六十歳は越えていないその人は、いつもそこで眠っていた。ホームレスにしては小奇麗だが、いつもそこに寝ていて、そこをねぐらにしているようだった。片目が潰れているのか眼帯をしていて、うずくまるように眠っていた。何故そのような境遇におちったのかは、分からないが、はじめはホームレスらしくない様子が気になった。やがて、いつも見ているうちに、その人がそこで生き続けていることが、小さな救いのように思え、遅くまで呑んだ後は、いつも覗くようになった。

 その人が突然いなくなった。もちろん、何らかの施設とかに入ったのかもしれないし、知人が引き取ったのかもしれない。ただ、悪い咳をしていて、だいぶ弱っている様子だったので、死んだかなという思いをぬぐえなかった。いや、ぼくにとっては、死ですらない消滅だった。知人の死の悲しみとは比べようがないが、死ですらないそのような出来事は、違う意味でショックだった。

 そのように誰にも知られずに、ひっそりと消えていく人間は、「無縁社会」などと呼ばれる、現在は少なくない。さらに、今回のような大震災が起これば、何百、何千というこのような死者が生ずる。もし魂があるなら、そのような死者の魂はどこにいくのか。あるいは、そのような死者はどのように、この社会に言葉を残せるのか。

 新川和江の3月に刊行された詩集『名づけられた葉』(大日本図書)を、ぱらぱらとめくっていると、そのような死者たちのことを考えた。この詩集は過去の詩から、子供が語り手であるである詩を集めた、アンソロジーで、けしってくらい詩集ではない。もちろん、語り手も死んだ子供としては書かれていない。しかしどこかに消滅した者の影があるのだ。

傘を持たずにきた子が
放課後 昇降口で
ぼんやり空を見あげている
「いっしょにかえろう」
わたしの傘に
入れてあげる
 
つめたい雨が
どちらの片ほうの肩にも
すこし降りかかるけど
こころは どちらも
まぁるく まぁるく
あったかいよね
 
わたし まえから
仲よしになりたかったの
これからは
てんきの日にも
いっしょにかえろうね

(「雨の日に」全文)

 短い詩を全文引用してみた。どの詩でもいい。読んでいくとそこには、生きている子供とともに、すでに消えてしまった子供の声も響いている。もちろん新川は、あえて死んだ子供の声を書こうとしたわけではないだろう。詩の言葉が私から遠い場所にあるということを、体で理解しているのだ。だから、言葉は遠くに投げ出され、私だけでなく、生者からも遠く、死者でもない中間の声として現れてくる。

 詩の言葉は書き手から、最も遠いところにいある。当然と思うかもしれない。しかし、存外そのような点を、明確に表現できている詩は少ない。私のための言葉が氾濫している。私ではなく、私と他の、生と死のあわいの言葉。それを突き詰めるとどうなるのか。

 今週末から、ポレポレ東中野でレイトショーされる、吉増剛造の「gozo Cine」は、そのようなあわいの具現といえるだろう。ストーリーのない短い映画で、物語らしい物語はなので、説明は難しい。吉増が様ざまな場所を移動しながら、映像を撮っていく。吉増剛造なのだから、もちろん単なる日常的、散文的移動ではない。時間や空間の越境や溶解ともいえる、移動がなされる。

 例えば、最新作のひとつでは、『白鯨』の作者のメェルヴィルの博物館の展示に、ゴッホの肖像画が重ねられる。もうひとつの最新作はさらの凝っている。激しい雨が降る、アメリカの湖のほとりで、アメリカの詩人のフォレスト・ガンダーが、朔太郎を題材にした詩を読む。音楽は朔太郎の作詞したマンドリン曲で、その後には、水辺の馬や小川などの朔太郎の写真が続く。そして極めつけは、まるで主役のごとく、映像の中心に置かれた、豆電球を中に入れた光る繭玉。さらに、湖への御礼として、湖に叩きつけられる紐のついた貝が、最後には映される。不思議なことに映像を見ていると、ゴッホの肖像や、些細なごく小さい繭玉や貝が、ひどく巨大に見えてくる。それに伴い風景もまた変容する。何げない風景がじつに巨大になる。最後の映像に関しては、巨大な貝が水面を叩くという、何とも空恐ろしいものにも見えてくる。

 「gozo Cine」が映像として優れているかは、私には語るだけの知識がないし、正直なところ保留にしたい。しかし、そこには一人の詩人の思考、捉える風景や世界が明確に現れている。映し出された事物は属性をそぎ落とされ、むき出しのものとしてある。時間や空間、大小すらなくなり、それこそ小さなものが巨大に見えたりする。上映前のプレイベントとして、吉増と映画監督の吉田喜重の対談があった。吉田は吉増の映像に対して、以下の内容のことを語っている。

生と死のあわいに揺れていて、最近は針が死の方に近づいている。

 対談の言葉で録音を持っていないので、正確に書くことは出来ないが、このような内容だった。映像の中心には、ゴッホ、メルヴィル、朔太郎など、すでになくなった人物がいる。それらがあたかも同時代の人物のように描かれる。現在と過去、あるものとないものが、九十九折か絵巻のように、一連のつながりとして描かれる。死んだものも存在するのだ。

 私も「gozo Cine」は二十本くらい見ているが、最新作を見て感じたのは、手の動きが早くなったことだ。どんどんと思考より先に、手が動いているように思える。思考が後から追いかける。より深い部分の私を越えた、記憶や可能性が湧き出している。それはひたすら座禅をする道元や、ひたすら踊り続ける一遍、ひたすら念仏を唱える親鸞などの、鎌倉新仏教に通じるものがある。頭の記憶ではなく体の記憶。吉増の追い続けた言葉の先端が、そこにある。

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