自由詩時評 第17回 森川雅美

いまの実感を表す言葉

 ここのところ時間に余裕ができたので、久々にいくつかの展覧会に行った。「ワシントン・ナショナルギャラリー展」「大英美術館 古代ギリシャ展」「空海と密教美術展」の三つだ。それぞれ見ごたえがあった。ここはあくまで自由詩の時評なので、個個について詳しくは記さないが、三つの展覧会で共通に感じたことを記したい。

 「リアル」についてだ。もちろん、十九世紀のヨーロッパの印象派、紀元前のヨーロッパの彫刻や壺絵、九世紀の日本の仏教美術なのだから、それぞれの表現はまったく違う。しかし、どの表現も「リアル」と感じるが、表されているのは決して私たちが見慣れているものとは、異なっている。印象派の絵画は近くで見ると、思いもかけない色が積み重ねられているし、「円盤投げ」などのギリシャ彫刻(そのほとんどはローマの模彫だが)は、体の一部が極端に誇張されている。密教美術も存在感と重みを増すため、どこか不自然な体の動きがある。

 「リアル」は実感であって現実ではない。いや、現実とはそのようなものと、いった方が良いだろう。今さら哲学や仏教の言説を持ち出して、説明するまでもなく、あるということはあくまで、捉えるもの感受の問題であり、捉えるものの数だけ、「リアル」はあることになる。優れた作品とは、いかにこの「リアル」を、的確に表現するかにかかっている。そして、重要なのは、「リアル」は感受が先であり、思考はそのあとということだ。頭によって捉え創られたものは、往々にしておもしろくない。

 もちろん、自由詩も例外ではない。それどころか、言葉に関係するため、事態はより複雑で、さらに、定型詩や小説のように、定型や物語という準拠枠もない。最も抽象性が高く思考に傾きがちな言葉を使い、互いに共通に認識できる形もない、自由詩はどのように「リアル」を表現できるのか。音や色、映像などの直接的な媒体の表現と比べて、より複雑で困難なプロセスを経なければならない。加えて、現在のように、表現自身が過去の規範を失い、新しく模索されている時代では、「自由」であるということは、個個の感受自身を、表現の形としなければならないだろう。

 「朝日新聞」八月二十五日の朝刊に高橋源一郎は、「震災」や「原発事故」について書いた作品を上げた後、こう書いている。

 共通しているのは、詩や小説や漫画としての完成度が最初から無視されていることだ。彼らには「いいたいこと」があった。そのために、「制度」となった詩や小説や漫画とぶつからざるを得なかった。そんな風に、ぼくには見えた。それは、おそらく「表現」の分野だけの問題ではないはずなのだ。

 確かに頷ける。しかし微妙なところで、「待てよ」といいたくなるずれがある。「「いいたいこと」があった」というが、それならば、それ以前の表現はいいたいことがなかったと、いうのか。このような表現は、「震災」や「原発事故」に特権性を与え、分水嶺としてしまう危険がある。前にも書いたが、「震災」や「原発事故」は、それ以前から進行していた魂の荒廃の具現であり、そこまで捉えないと、表現は単なる現象に堕してしまう。もちろん現場の力を無視するわけではない。しかし、現象を比喩とすることが出来なければ、私の「リアル」は多数者の「リアル」に、席を譲ってしまい、表現の深まりは見られないだろう。確かに、今のためには、このような表現も必要かもしれないが、それはあくまでも今だけの現象に過ぎない。しかし、本当に現在を問い、将来に問題を伝えたり、長い目で見ての救いにはならないだろう。もちろん、表現は長い連鎖であり、今の表現は次の表現のステップであるとするなら、困難な時代をどう表現するかの、それぞれの書き手の、格闘の足跡と見ることもできる。

二〇一〇年の、天高く
雲がわき立つその向こうを
午後が滑り墜ちていく
白と黒の淡彩画に
とけ込んでみえにくい東雲草の、
不運な棚の角度。
 
時代にわすれられて
愛でる者もいない
東雲草の
世界を制覇するための妄想が
朝の露に光る、
白骨の白だよ。

(「東雲草」部分)

 田中勲『最も大切な無意味』(ふたば工房)から、冒頭の詩の末尾の部分を引用した。田中は地味ながら、確実な仕事を続けている詩人の一人だ。この詩には「震災」も「原発事故」も記されていない。だいいち、書かれているのは二〇一〇年だ。とわいえ、ここには現在の状況につながる、生命の荒廃や危機が、静かながら確実な口調で記されている。「雲がわき立つその向こうを/午後が滑り墜ちていく」という部分には、典型的に現れているが、言葉は具象と抽象の間で、振り子のように揺れている。そのため現象は実景であると共に、比喩であるという、複雑な構造になっている。日常の裏に潜む不安な現在が、透けるように見えてくるのだ。まさに現在を比喩とすることで、詩は普遍へと一歩だけ位置をずらす。

女たちは湯の中では互いに無言だ
柔らかなまるいからだを湯にしずめ
ため息のように過ぎた日を泡にして吐く
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肉をふやしからだはふくらみゆらめく
うでは花のふとい茎 足は魚の尾ひれ
そよぎ薄い血の色の名づけられぬいのちになる

(「女湯」部分)

 斎藤恵子『海と夜』(思潮社)から、末尾の作品の書き出しを引用した。ここでは言葉はより深い時間の層に沈み込んでいる。はじめの一行は実景だが、すでに二行目で大きく地層はずれる。いわば、神話的ともいえる、記憶の奥の深い共有の場所から、詩は現れてくる。「柔らかなまるい」という言葉の、ひらがなと漢字の微妙な感触が、奇妙な手触りと共に風景を浮びあがらせる。続くのは二重の比喩だ。いわば複数の層が複雑に入り組みながら、重ねられることにより、相互が喩や寓話になることで、詩は空(くう)とでもいいたいような、違う地層に開けていく。ただ、田中の詩が最後まで、現在の層を中心に展開したの比べて、さらに深く記憶の層に潜っている。そのため、より大きな言葉の意識が表れる反面、現在からの問いかけが見えにくくなっている。そこに自由詩の現在の、ひとつの問題がある。

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