自由詩時評 第22回 望月遊馬

 橘上さんの『YES (or YES)』のなかの「雨」は、バスが雨によって語られたり、雨との関係性が鳥との摩擦によって示されることで、さまざまに置換されていく事物の様相を描いている。ところで、本詩集に収録されているこの「雨」という作品は、雨を中心にして、雨と事物との関係性が、その空間のなかでの役割変換による関係性だけではなく、時間軸のなかですらその関係を語ろうとしている。

あなたが新しく通り過ぎるなら 濡れたままでもよかったけれど
 
時計を合わせるのに 何年も費やしてしまったから それでもあの
 
こははしらなかったから バスは予定通り来てしまう 何もさわら
 
ないで

 ここでは雨の存在そのものが語られることはない。「濡れたままでもよかったけれど」という部分に、かろうじて雨が降ってびしょぬれになった主体の存在が見え隠れするものの、雨そのものが語るというよりも、バスが来るかどうかという期限付きの予報が行われているにすぎない。時間軸によって語られる「バスが来るかもしれない」という期限付きの予報のなかに、「雨が降るかもしれない」という事柄も含まれているのではないか。

 そして、その次の部分「この雨がバスをとかしても バスは走る 雨になって走る」という部分ではじめて雨があらわれる。雨という存在によってバスは侵食され、バスそのものがその役割自体すらも雨にとって替わられる。あるいは、バスは雨になりおおせた、という見方もできる。

 さらにこの雨は、「鳥と何度も摩擦して」という部分や、「空と摩擦し傷をつけ」という部分に見られるようにあらゆるものと摩擦をくりかえしている。そして雨はバスになりバスは雨になり、その役割の背景によって突き刺さったり、地面にたまったりして、その役割を果たしている。

 しかし最後「おれた塔の傷口から 雨が降りだし戦車がぬれる この雨はバスにはならずに つづいた空の裏側で あなたと摩擦もできないで 音もなしに走っている」という部分で、はじめて雨はバスにならずに、あなたとの関係性とのみで語られる。ここでは、雨だけでバスが出てこない。一方で、冒頭では、上記のようにバスのみで雨が出てこない。どちらか一方が欠損している。雨とバスとが表裏一体であるにもかかわらず「あなた」という存在の介入によって、その表裏一体感は突き崩されて、世界が展開する。どちらかの欠損があるのは、「あなた」の存在があるからにほかならない。

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