自由詩時評 第27回 福田拓也

 現代詩というジャンルを様々な変貌のさなかに囲い・境界として出現させているのが、廿楽順治の『化車』という詩集の最後に置かれた長詩「化車」だ。既に指摘したように、この詩にあっても、場所・行為・時間などすべてのものが自身の同一性を離れ(「おなじかたちのところはあるけない」)、「ちがうものになる」途上にあるかのようだ。移動の展開される場所は、「夢の島」であるようでもあり(「夢の島にいた」)、「車内」であるようでもある(「あるけなくなったので、わたしたちは車内にいた」)。移動は、「あるく」ことであり、「ねむる」ことであり(「車内ではねむっていなさい。」)、「たべる」ことであり(「あるけなくなってもものはくえる。」)、「とぶ」ことでもある(「ねむりながらとぶ」)。移動・変貌の結果「ぐにゃぐにゃしたわたしのじかん」が肯定され、「南方」(「南方にむかったりしていた。」)、「疎開」(「平和でも/これはやっぱり疎開なんだからね/みんなで東京へいく線路をさがしましょう」)、「空襲」(「ねむりながらとぶ/つまりあたらしいたたかい方/ごらん/わたしのしたはひさんな空襲」)など時間的な他者である戦争、第二次大戦的なものたちへと至る。車は恐らく「箱」でもあり(「箱/のままだ/窓がまた鳴っている/おかしい/へんだ/(ここにはからくりがある)/のったときからこのくるまはおかしかった」)、とりわけ「おべんとう」の「箱」である。「ふうけいは/箱にはいっているのでとてもあったかい/朝/忘れてきた/おべんとうのようなものだ」」。様々な次元でのこうした移動・変貌の挙句に、詩は今まさに展開されつつある詩へと立ち帰る。「箱が、箱にまとわりつ」くように、詩と詩でないものとを差異化する囲い・境界・ジャンルとしての詩が、「ふたをうるさくあけしめし」つつ、詩に「まとわりつ」く。「すこしも/おおきくならない」「妹」の声だろうか、「くさったものをたべて死んでしまった」「妹」の声だろうか、あるいは、この詩が書かれることによって初めて聞こえて来た戦争にまつわる何ものかの声だろうか、「(いたい、いたい、いたい)」という声の聞こえて来る次の美しい詩行は、自身に立ち帰り今書かれている作品を終わらせることをそそのかす詩の声を出現させている。

もうおわりにしたいんだよ。箱が、箱にまとわりついて、ふたをうるさくあけしめしていた。(いたい、いたい、いたい)そこからおとなしい島にむかった。おとなしくなるためにひとは袋をもっている。呼吸にねいろがついていた。どうして、いつまでもよくわからないにほんごを書いているのかねえ。もう、あきらめてふたをしなさい。わたしがこまかく切られて隅までつめられている。ぶた肉みたいだ

(詩は)
ふたですか

「車」もまた「箱」や「ふた」と同じく、囲い・境界としての、ジャンルとしての詩を意味してはいないか。最後に、まさに「車」に「化」することによって、つまり、「わたし」が恐らく「だれにもきづかれない」、もはや「ひとのにほんご」につきまとわれることのないジャンルとしての詩に化することによって、この『化車』という詩集は閉じられる。

わたしたちのねいろがにごっている
ながいにほんごはもういらない
みじかいにほんごももういらない
これからはだれにもきづかれない
きれいでしずかなくるまになるのだ

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