自由詩時評 第29回 野村喜和夫

 日本語というのは不思議な文字体系を持っている。ある言葉を漢字で表記するか仮名で表記するかで、意味や音韻はそのままなのにニュアンスがちがってしまう。つまりコノテーションに変更が及ぶのである。たとえば人をヒトと表記すれば、われわれはそこに何らかの動物的次元がひらかれるのを感じる、というふうに。

 ここでは「世界」と「セカイ」との差異について語ろう。詩集『何処へ』(書肆山田)を上梓した高橋睦郎は、そのあとがきで、「ここに纏めた三十三年間の作品たちがみずからは知らずひたすら、のちに3・11と名付けられる未知の終末的予徴への不安におののき向かっていたとだけは、言えそうだ」と述べている。たしかにそのようなことはあるだろう。私自身、過去の自作を振り返って、今度のカタストロフを予感していたような作品があることに驚いたりしている。それはなにも詩人に予言者めいた権能があるからではなく、言葉と言葉の関係を更新する行為が詩である以上、その一行一行は、いわば未来の言語からもたらされる何ごとかの、詩人による書き取りなのである。

 ただ、「終末的予徴」と言い切っているところがいかにも高橋らしい。それは、いうなれば方向づけられた絶望であり、そのかぎりで、言語と現実はゆるぎなく対応している。力作「市場からの報告」においても、「市場」が素朴な「イチバ」とも経済システムとしての「シジョウ」とも読める曖昧さを逆手にとって、詩人はまさに「世界」としての市場を見事に捕捉しているが、言語そのものが「不安におののき」ふるえるというような事態には到っていない。個性とともに、世代ということもあるだろうか。

 というのも、たとえば高橋より四半世紀ぐらい遅れて生まれてきた渡辺玄英の『破れた世界と啼くカナリア』(思潮社)には、もはやそのような安定は望むべくもないからである。この詩集も3・11以前に書かれ、にもかかわらず「破れた世界」というからには、やはり何らかの「予徴」が記されているのであろうが、しかしそこに終末論的な展望はない。だいいち、「世界」は本文中では多く「セカイ」と表記され、軽量化されてしまっている。というか、「世界」は「ぼく」や「きみ」のそれぞれの「セカイ」に砕け散って、乱反射しているというふうなのだ。だがそれでも「啼くカナリア」だけは存在する。それは、現実との一意的な対応を失って自走し始めた言語を、つまりもはやうたとも呼べないようなうたをうたうが、しかしどこか奇妙に明るいのである。さしずめ、方向のない希望というべきか。

 若手では八柳李花の『サンクチュアリ』(思潮社)が、古風といえば古風な、隠喩的なテクストの組成のうちに「啼くカナリア」を招き入れる。それはまた、言葉で何かを語ることが、言葉それ自体をして語らしめることに繰り返し反転しながら、なお果てしなくうねりつづけるプロセスそのもののようにもみえる。とはいえ、「sanctuary」と「insomnia」の二部から成るその前者から後者へ、「暗い母」の聖域から「あなた」とともにある不眠へ、エクリチュールが交差配列的にやや華やいでいくのが印象的だ。その再生への途上であらためて、今日の詩の行為における人称や他者の意味が問い直されているといったらいいのか。

 加えてさらに、存在という名の夜の底にうごめく不気味なるものへの感性、たとえば詩集の冒頭を飾る「北国の緯度に殺されるなかに/わたしには喜んでさしだす心臓がある/なましろい腕を寝台からたらして/鬱血はあおく浮かび」というような詩行は、萩原朔太郎に息づいていた詩の細胞のはるかな転生を思わせる。まさか。そんなことを思いつくのは、私がつい最近、萩原朔太郎展(世田谷文学館)を見に行き、また私自身、『萩原朔太郎』(中公選書)を上梓したばかりという事情があるせいかもしれない。

 いや、詩にも遺伝子があるのだとはっきり言おう。誰の遺伝子を受け継いでいるかということは、とりわけ新進の詩人の場合には重要であり、それをどのように時代と個性において育て、詩の未来へと変容させていくかが試されているのである。暁方ミセイの第一詩集『ウイルスちゃん』(思潮社)を読んでその思いをあらたにした。暁方が受け継いでいるのは、驚くなかれ、宮沢賢治の遺伝子だ。宇宙とのエロス的な交感のうちに自己の滅却を願い、またそこから自己を超えた生命全体の意味を問うていくという賢治の想像力の運動は、あまりにも特異なため誰もそれをわがものにしようとは思わなかったほどだが、ここに、この若い詩人のみずみずしい詩作に、隔世遺伝のように息づいているのである。

 すなわち、冒頭いきなり、「野をこえ、山をいだき、/血液はどこまでも/そのひとつひとつが眼差しとなって拡散していく」というような詩句が読まれるし、ときどき登場する「列車」のイメージも、あの「銀河鉄道」が現代詩の世界に引き入れられたかのようである。乗客のひとりである「わたし」の「鞄の中身」は、カンパネルラさながら、「死んでしまった少女のまなざし」だ。

 こうして、暁方ミセイというひとりの詩的「修羅」が生まれ出たのだ。彼女はどこに行こうとしているのか。それはまだはっきりとはみえてこないが、「ウイルス」というイメージに込められた両義性への感応が、あるいは分身としての妹の死を「春の衝動」に重ねる再生への意志が、暗示的にその方向を指し示しているような気もする。彼女の想像力のスケールの大きさに期待したい。

 今回の結論。「世界」の分散あるいは縮減としてあらわれた「セカイ」は、若い八柳や暁方の隔世遺伝的な試みを通して、ふたたび「世界」へと困難な斜面をのぼり始めているのかもしれない。

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