自由詩時評 第44回 金子鉄夫

 しかしなんだ。この時評を森川氏から、酒席で依頼されてから三回目の時評だが、未だに、こういう畏まった散文の書き方がわからない。一回目、二回目は、もう本当に手探りで読書感想文の書き方を思い出し出し、付け焼刃的に、なんとか切り抜けたけれども、今回は、現代詩文庫五十七の詩人、藤富保男の散文集成「詩の窓」のことについて書き出そうとおもったが、時期を逃してしまって、今更に現代詩の旬な事件といえばおおげさだが事柄を探す気力もなく(そもそもそれが悪いのだが)、ただ、〆切があるからパソコンの前に座ってみたが、なんのことはない。セブンスターに火をつけ、ただ座っているだけである。これは困ったということで、とりあえず現代詩手帖の最新号(もうじき次号が発売されるが・・・)をくわえタバコで捲ってみる。だが、捲ってるだけでは何もはじまらない。その捲った現代詩手帖の最新号に掲載されている作品からあっぷあっぷで今回の時評を始めてみようか。

「ビルのオーナーは厳格で/ああだ、こうだと決まりを作る/だけどロビーで働くトニーなんかは/「そんなこと気にしなくていいんじゃない」/だけどあるときびっくりしたね/エレベーターホールを工事している/何をしているのかとたずねたら/フジロックがやって来るんだという/ぼくは悪い夢を見ているのかな/ビルの十三階でフジロックだなんて」

(友部正人「フジロック」より抜粋)

 友部正人である。伝説の中津川フォークジャンボリーにも参加したことのある現役のフォークシンガーである。その友部正人の作品がGTのページに詩を書いている。以前といってもかなり前だが、この現代詩手帖で盤の紹介を持っていたし、詩集も幾冊も出しているし、なによりも現代詩文庫182の男、友部正人であるから、その人の作品が現代詩手帖に載っていても不思議はないのだが、一見して、この新鮮さはなんだ。まず「フジロック」という語の新鮮は格別である。僕が知っている(至極、狭い範囲だが)我が国の詩人にロックフェスのことを書いた詩人を他に知らない。(「フジロック」とは日本が誇る世界的に知られたロック祭である)まぁ、個人的な驚きはさておき、友部正人の掲載されている今回の作品と併せて現代詩文庫182も手にとって捲ってみたが、やはり、このシンガー兼詩人(あえて区別する必要はあまりないが)のセンスは他に類をみないものである。意匠としてはライト・バースの系譜をたどりはするが、そのライトなバースに圧力をかけて歪ませている。あまりに僕は頭が足りないから、歪ませているとしか説明できないが、初期の作品をとってみても、その変性は当時の詩人と比肩するポエジーさである。それは友部正人自身が六十年代末から、一貫して何がどうしても激烈に「軽く」あろうとする信念をもってしてのことであるのだろう。その「軽さ」は、「浮力」を持って時に、飄々として尚且つ鋭利に時代を抉る。友部正人のデビュー作「大阪へやって来た」を聴きながら、こういう詩人の在り方、こういう生き方もあるのだと馳せてみたりする。

 

「友達もいつか名前だけになってしまうことを僕は知っている/いつのまにか手を取り合うだけのエゴイズムとすりかわってしまう/長髪を風になびかせる自称ヒッピーたちでさえ/新しいコートがなかなか肌になじまないことを知っている/ものすごくたくさんの広告がいろんなスタイルを要求するけど/家をでることだけが自由じゃないと思うんだ」

(友部正人「大阪へやって来た」より抜粋)

 「家をでることだけが自由じゃないと思うんだ」、もう随分前の作品だが、最近の野暮ったい惰性的アナーキーさと言いたい、言葉ズラだけの自由を履き違えた風潮に警鐘を鳴らすような作品である。「家をでることだけが自由じゃないと思うんだ」。

さて、とりあえず今回も書きだしてみたが、いつもながらに他の時評者の方と比較して字数が足りないのじゃないかと不安も、不安になり、さりとて、あまりに怠惰にできている僕ゆえ、またセブンスターに火をつけ、考えているフリをする。が、そんなことしているわけにもいかず、しばらくまた現代詩手帖を捲ってみる。高岡淳四である。

「詩人がいっぱいいる宴会で、/ある詩人のことをボケ老人と言ってみた。/どうして?と聞かれてから/答えられないことに気がついた。/お前ごときが何を言うか、と言われて注目を集め、/誰もお前のことなど認めていない、/何をしに東京に帰って来たのかと笑われた。/所詮、詩と関係ないところで詩人の悪口を詩人に言った俺が悪いのである、」

(高岡淳四「所詮、詩と関係ないところで詩人の悪口を詩人に言った俺が悪いのである」より抜粋)

 友部正人と同様、このライトなセンスがすばらしい。現代詩が(幾人の詩人は別として)重くなってデブって久しい。そんな脂肪でギュウギュウになった現代詩で、これほどのライトさを持続させるのは並のことじゃない。、とおもう。最近、散文化やらなにやらいわれるが、こんなデブってしまった現代詩の隣で、そんな現代詩を横目で流しながら、幾分、変態的なライトなバースはうたっている。なによりもデブってしまった現代詩にはない「浮力」がまぶしい。いつだって「浮力」をもっていれば浮かびあがって現前するのだ。

 とここまで書いた勢いで、冒頭に名前を出した現代詩文庫57の詩人、藤富保男の「詩の窓」のことを少し。この五十年代初頭の第一詩集「コルクの皿」から、自身が敬愛するカミングズばりの「浮力」を持続させる稀有の詩人、藤富保男、自身を解体的に語った「詩の窓」である。初っぱなから藤富保男独特のエスプリ体質を感じさせるダダの話からはじまって、エリック・サティ、カミングズ、星野洋輝などなどユニークな「浮力」をもった固有名を巻き込みながらウィイットの効きすぎた文体で最後まで一気に通読できる、これまたすばらしい「浮力」に支配された書物である。決して中心にいた詩人ではないというのが僕の認識だが(しかし、なにが中心かはそれぞれだが)、五十年代から独自のフィールドに立って、現代詩アバンチュールを続けてきた詩人の面目躍如である。是非、一読を。

 と最近、僕自身が思っていることを少々。(興味がないひとは読みとばしてもらってもかまわないし、この金子担当時評も然り)「忘れられた書物」ということについてである。今の浮世は何をするにしてもスピード重視である。わざわざ「忘れられた書物」を求めて、古本屋などへ足を運ぶということは少なくなっているようにおもう。アマゾンがあるのだ。

電子に犯されつつある身体に自戒を込めたいところだが、やはり圧倒的に便利である。既刊された本の題名を入力し、購入を押せば早ければ次の日の夕方には目当ての本が手元にくる。新品を購入するよりも安価で。このように昔に刊行され、今では入手しにくくなっている「忘れられた書物」との距離がインターネットという網を介して格段に縮んだ。この距離を利用すれば昔も今である。少し飛躍しすぎたが、何を言いたいかといえば堆積された歴史は絶えず今にぶちまけられ続けているということである。とまぁ、このようなことを論証立てる頭は装備されてないのでここらへんでやめておくが、時評という、こういうナマな場で、すべてとは言わないが「忘れられた書物」を「旬」に少々、語っても差し支えがないのではないかということ。時評ということの厳密さの揚げ足をとる意見で申し訳ないが、これからは、せめて一冊ぐらいは「忘れられた書物」を今に還したいとおもう。それだけ「忘れられた書物」には「浮力」がある。そんな「浮力」をもった詩集から一篇引用する。もう、三十年以上も前の田中勲「ひかりの群盗」という詩集

「たとえば/両肘をつき立てる/・・・・・・亡妹の耳垂れる夕刻を割って/砦、眠りに余れば棒杭の/髪、ざらざら凭れる顎や/こめかみの不安に声なき郷の空洞をなぞる/だから砦、くやしい幻といえ/やはり夜、両肘をつき立てる/真っ青な棒杭の涯という/眠りに余れば・・・・・・/(廃屋、敗北のはじまりじゃない)」

(田中勲「砦、水争の」より抜粋)

 と、まぁ今回の時評は「浮力」という鍵語で乗り切ったつもりだが、肯定的であれ、否定的であれ「速度」の世である。(まぁ僕みたいなペーペーチンピラが世を語るのはおこがましいが)そんな新陳代謝が激しい世の中だからこそ、その網目を掻い潜って浮かび上がる「軽さ」が、脅威的な消費社会に拮抗しうるのではないか・・・とあまり深い考えなしに述べてしまったけれど、ご愛嬌である。ここまでで、灰皿に揉み消したセブンスターは二十二本、言った先からの消費であるが。

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One Response to “自由詩時評 第44回 金子鉄夫”


  1. 榎本櫻湖
    on 3月 10th, 2012
    @

    あけすけなまでに私への嫌がらせをなんの咎めもなしに掲載するなんて運営側も揃って同じ意図なのかとさえ疑う。どうせ詩人なんか見やしないサイトだからって暗に名前をださず個人を誹謗するなんてあまりに不愉快だ。

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