自由詩時評 第45回 野村喜和夫

 例年この時期はめぼしい詩集の刊行もなく、この欄も開店休業状態だ。自由詩関係の読者諸兄よ、将来もし詩集を出すつもりなら、刊行ラッシュとなる夏から秋はやめて、この谷間の時期に照準を定めてはどうか。時評などで取り上げられる可能性が増すこと請け合いだ。それはともかく、この春から夏にかけては、去年「現代詩手帖」の投稿欄をにぎわした新鋭たち、金子鉄夫や榎本櫻湖やブリングルといった面々の詩集が刊行されるはずなので、それを待つことにして、今回は詩をめぐるあれこれを断章風に記してみようか。

 周知のように詩とは怒りであり、その怒りをバックにしているかぎり、過ちを恐れる必要はない。

 詩は頭脳だけの仕事ではない。はるかに多く肉体の仕事である。ざらついた大地と鈍重な物質を相手の仕事である。

 極論すれば、詩の行為とはすべての言葉を固有名たらしめようとする企てかもしれない。固有名は、普通名詞のようにはその意味を説明できない一個の謎としてある。たとえば私が「不老川」と書くとき、それは「川」という普通名詞の規定をはみでて最初から謎そのものであり、あるいは謎そのもののように横たわる私たちの生の奥処を、かろうじて指しているのだ。同じように、「犬」なら「犬」という言葉を、言語という差異のシステムから掬い上げて、「えっ、犬って何?」とあらためて読み手に問わせるような出来事、それが詩である。

 ときおり私が夢見るのは、言語のプラズマ状態、とでも仮に名づけておきたいような詩的テクストである。プラズマを辞書で引くと、「超高温下で、原子の原子核と電子が分離し、激しく動き回っているガス状態」とある。ガスが晴れ上がってしまったら、白けた言語の昼がつづくだけだろう。

 詩人にはふた通りの主体があるように思う。たとえば韓国を代表する詩人高銀。日本にはいないタイプの、大きな構えの声とヴィジョンを持つ詩人であるが、それはときにほとんど民族の声とヴィジョンに重なり、そこからさらに、半島を取り囲む海、そしてその海へと発せられるべき「宇宙の方言」としての諸言語、というふうに夢想をふくらませてゆく。そのようにしてこの詩人は、ある独特の抒情主体を提唱するのだが、それはいわゆる近代的自我の否定の上に立ち、しかしだからといって、語っているのはテクストであって主体ではないというような、きこえのいいポストモダン的転回とも位相を異にしている。高銀自身の言葉を借りるなら「海の広場」の人称であり、つまり人称はあくまでも一人称でありながら、同時にひろく他者や大地とのコミュニケーションにおいて「酔う」ことのできるような人称、とでもいえばよいのだろうか。一方たとえば吉増剛造は、むしろ大地や言語の微細な襞をひとつひとつ辿るようにして自己のポジションを確かめ、そこからあらためて他との接点をもとめてゆく。数学の比喩を使うなら、半島の詩人の積分的主体に対するに、列島の詩人の微分的主体だ。吉増氏の近年の詩集『天上ノ蛇、紫のハナ』(集英社)にもそのことは遺憾なく示されている。驚くべき詩的微分の結果、言葉はいわば永劫に発生の状態に置かれ、あらゆる言語に先立つ「芯音の始源」(「恋しい哀号」)がそこで小さな爆発を繰り返しているという印象である。

 実は私は詩のことなんか何も考えていない。詩を書くことは私にとって存在の理由のすべてなので、つまり詩のなかにまるっきり内在的なので、それを外から観測的に眺めて何か言うということにひどい困難をおぼえる。私は永遠に詩の胎児であろう。まるまって、母から栄養をもらいながら、自分の血であり肉である詩を紡ぎつづけることができるだけだ。あるいは卵、私は卵であろう。だからといって、たんに殻を割ってそこから雛があらわれるあの丸みあるかたちをいうのではない。卵とは、さまざまな分化に向かう力線にあふれている、その潜在的なあふれのことだ。いずれ何にでもなりうるが、いまはしかし安住すべき拠点もなく、あらかじめ定められた目的もなく、そうした状態のまま、いつまでもかたちをなしていない力でありつづけること。というのも、一方で今日、私たちの生は、その内面も含めてくまなく管理され、苛烈な経済原則へと方向づけられている。そのような時代状況下では、卵という未決定的な力のうごめきになにごとかを託すというのも、考えられうるひとつの有効な抵抗のアクションであり、自由への夢であるように思われるのだ。

 これからの詩? ちがう、むしろさえずり、難解なさえずり、あるいは狂気、言語が言語として晴れわたる前のとびきりプラズマな狂気、あるいは悲鳴、浅い深淵のうえで身体のようにそよぎ波打つ悲鳴、あるいは怒り、世界の影のパートを秘儀さながら光に変えてしまう怒り、あるいはめぐらし、ハアハアきれぎれの閾でもある息のめぐらし、あるいはヴィーナス、むきだしの元素たちが飛び交う無修正リアルな肌のヴィーナス、あるいは、あるいは──

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