1年
3月15日に福島県南相馬市に行ってきた。同行は詩人の藤井貞和さんと佐藤雄一さん、評論家の神山睦美さん、国文学者の兵藤裕己さんなど、総勢七人の旅だった。南相馬市の復興計画に関係する、田口空一郎さんのコーディーネートで、市長や総合病院長や、先回の時評で詩の一部を引用した、現地の詩人の若松丈太郎に会うという、実に有意義な旅だった。
まさに「百聞は一見に如かず」。現場に行ってみると、日々報道されている情報から得るものが、いかに実感をそぎ落とされているか、痛感せざるを得なかった。昨年の9月に個人的に、仙台、石巻、釜石を訪れた時もそうだったが、現場に行ってまず感じるのは、いかに津波の力がすさまじいかだ。多くの家が流され見渡す限りが空地になり、遠方にもはや人の住んでない家が見えるだけの風景や、家の外側は残っているものの、内側は流されてしまいからになってた建物がつづく、町並みを見ると、テレビなどの映像では伝わらない、実感が迫ってくる。今回はさらに、市域に原発事故の避難区域がある、まさに現場である。道を行けば途中に検問所があり、数人の警察官が立っている。そこから先に行くことができない。また、計画的避難区域となっている飯舘村では、道の両側の家や店舗が閉じられていて、日常が壊れてしまっている様を感じさせられた。市長と病院長という、津波の対応と原発事故の避難の責任者ともいえる2人の、肉声からは当時の様子が伝わってきた。運ばれてくる津波の被害者、原発事故後の緊急の避難、その後の家族や共同体の崩壊、などは東京に暮らす私の想像力を超えていた。
「今起こっている現在を、どのようにすれば表現できるのか」
そのような事実を前にした時に私はそう感じた。そして、あるインタビューで宮崎駿がいっていた、言葉を思い出した。
「風の谷のナウシカ」は平和な時代から、滅亡をロマンチックに描いたもので、このような時代になると語る価値もない。
いま資料がないので正確な言葉ではないが、このような内容だった。
もちろん訪問者でありそこで生活しているわけでなく、当日に遭遇したわけではないので、もっと過酷な当事者に比べれば、何ほどのこともわかってはいない。とはいえ、実際の場を見て当事者の肉声を聞き、報道から知るのでない現状が実感されると、宮崎のこのような言葉が痛く突き刺さってきた。それがすべてではないが、私も含めて90年代から00年代にかけての、詩や小説には、どこかに滅亡への甘美さ、ロマンチィズムがあったように思える。小説や詩よりも若者に影響のある、漫画やアニメにおいてはさらに顕著だろう。現在の喩としての寓話性、現在を語るためのフィクションということが、無化されたのかもしれない。
夜には福島の詩人たちとの懇談があった。はじめは、普通の懇親だったが、だんだんと今回の震災に関する、本音が出てきた。それはまさに自らの愛する生活の場を、日日高い値の放射能に晒される、詩人たちの本音だった。孫と関係が壊れたこと、日々健康の不安に晒されていること、偏見があること、など、それぞれが少しずつ語り始めた。
「私たちはあなたたちの体験していない、本質的な体験をした」
「今日見てきたことを詩にしてください」
この矛盾する感情が最後に語られた。過酷な体験をどのようにしても語りたいと、苦しむ詩人たち。
「私たちも語ります。あなたも語ってください」
そういうメッセージだ。
その時、朗読された福島の詩人の詩から引用する。私はこの詩を全面的には評価していない。引用はしないが、後半は書きすぎていてかえって感情や痛みが、弱まってしまう部分は否めない。とはいえ、この詩の前半はしっかりと物事を見詰め、感傷的にならず、しかし静かな怒りがたたえられ、原発事故という被災を受けた者の現在が、的確に表現されている。
あきあかねが きみどりいろの目を ひからせながら むれてとんでいたのは いつ
もんきちょうが 風に ふかれるはなびらみたいに つがいでとんでいたのは いつ
かなへびが 石がきのすきまに こけいろにひかりながら はいこんだのは いつ
こんなにあつい日なのに 蟻がいない うちのまわりに 蟻がいない
蜂のむくろに 蟻がこない
蜘蛛だけが たまつばきの葉かげのちいさな巣で やせながらじっとうごかない
いつもの古巣が どうしても 見つからなかったつばめは 早めにもう旅立ったのか
すずめたちは 稲田のほうに むれているのか 日ざかりの盆地は雲におおわれ
かわらがずれ落ち かたむいた屋根屋根には からすもいない
わがものがおの たけ高いざっ草のしげみで こおろぎたちが鳴いている
車がきしむ音がする すこしむこうで ねじれた家を解体している音がする
あの日の 深い海底でずれおこった音が 耳のおくを ごうごうゆする(内池和子「漂流する秋」部分)
旅の終わりは、福島駅から車で40分ほどの郊外にある、山腹の静かな数件の宿が並ぶ高湯温泉。昔日の面影や自然を残す温泉街は深い雪に沈んでいた。穏やかな川の流れを聞きながら温泉に浸かると、同じような体験をしてきた多くの人たちの、長い時間を感じた。
夜、藤井さんが全共闘や吉本隆明について語った。それは、まさに昭和(戦後)の話だった。
「吉本隆明が亡くなった」
朝、藤井さんが呟いた。昭和(戦後)を象徴する思想家の、震災、原発事故のほぼ1年後の死。できすぎるほどのひとつの時代の終わりだった。
最後にこれからの方向を示す3人の言葉を記したい。まずは南相馬市長の桜井勝延さん。岩手大学で宮沢賢治の視点から農業を学び、長年地元で酪農に関わってきた異色の市長だ。
津波が起こって多くの建物が流され車の行き来も減り、波の音が聞こえるようになった。子供の頃はいつも聞こえていたが、いつからか聞こえなくなった。そのことに気づかなくなったのが問題だった。
次に高見順賞の逸見庸さんの挨拶の内の言葉。
言葉と言葉の間には死体がある。言葉と言葉の間には出来事がある。
最後に藤井貞和さんの言葉。
これから被災地の詩人はそれしか書くことができず、そのほかの地域はどんどん忘れていく。
問われているのは想像力だ。
さくらこ
on 3月 23rd, 2012
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時評なのになんで紀行文が掲載されているのでしょうか。
胡沐嬰
on 3月 23rd, 2012
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時評なのになんで紀行文が掲載されているのでしょうか。
佐々木雅弥
on 3月 31st, 2012
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時評なのになんで紀行文が掲載されているのでしょうか。