自由詩時評 第47回 福田拓也

 3月19日の東京新聞によると、福島県内に留まる小学5年生と中学2年生の61パーセントが放射能を「気にしていない」というアンケート結果が出たという。徹底した情報操作は、この一例からもわかるように、ただでさえ子供たちの住んではいけないはずの福島に住む子供たちから自分の命を守る術・判断力を奪い続けるという殺人行為を続行している。それに加えて、国は、「被災地のために」という美名のもとに、放射能汚染された被災地の瓦礫を日本全国に撒き散らし、それによって放射能汚染を全国に広め、放射能汚染の結果今後生ずる癌を始めとする健康被害の件数・死亡者数の福島県の突出を隠蔽し、賠償額を抑えることを目論んでいる。

 現代詩の世界でも、この殺人的動向に呼応・連動する形で、震災を巡る詩的言説とでも呼ぶべきものの有力な一傾向が、いわゆる「震災詩」やエッセー・講演などを通して、自身を肯定し続けている。それは、一言で言えば、レヴィナス・ツェランらの意識的・無意識的な想起に由来する擬似ユダヤ的他者論の粉飾を施され、しばしば「沈黙」への厳命、と言って言い過ぎであれば語ることへの極度の警戒と牽制を伴う、「日本はひとつ」、「がんばろう日本」、「絆」等、そもそも原発事故とそれによる甚大な汚染を隠蔽するために震災による死者たち・被災者たちを情動的担保に取りつつ案出され唱えられたプロパガンダの現代詩版書き換え・焼き直しといったようなものだ。

 このような言説状況の中で、高岡淳四の「目を瞑り耳を塞がないと前に進めなかったのです」(『現代詩手帖』2月号)は、いわゆる「震災詩」の書き換えとして、際立った批評性を示している。

 タイトルが示すように、表題作は、何らかの道徳的非難への弁明の形を取っている。そして、道徳的非難のあるところには、たとえ暗黙のものであれ、何らかの命令があるはずだ。

 実際、「震災詩」には、命令法がよく似合う。と言うか、震災について語る者が、震災について語るための規則を命令法あるいは命令・義務を表す表現によって課して来るという傾向が「震災詩」を含む震災についての詩的言説にはある。震災後程なく書かれた一方井亜稀の「3・11を機に詩が紡がれるとするならば、それは傷を負った人々のリズムによってのみであろう」(『現代詩手帖』2011年5月号)という命題もそうであるし、「ならないだろう」というレトリックの連続が印象的な高橋睦郎の「いまここにこれらのことを」(『現代詩手帖』2011年6月号)も同様だ(「[…] 私たちは簡単に慰められてはならないだろう/たわやすく浄められてはならないだろう/私たちは蔑まれつづけ打たれつづけなければならないだろう/[…]」)。また、「未来からの記憶」(『現代詩手帖』2012年3月号)と題された講演で佐々木幹郎は、レヴィナスを引用しつつ、「高所において他者と自分を見下すような視点というのは成立しない」とし、「他者を諭したり、他者に自らの論を主張したりするのではなく、他者の言葉を聴き、聴きながら考える」ことを強調している。

 このような命令的表現が何らかの力を持つのは、それが震災による死者たちや被災者たちを召喚し、彼らを「他者」の位置に据え付け、命令に従わず震災について不用意に語る者へのそこからのあるいはそこを経由しての攻撃可能性をちらつかせることができるからだ。そのことにより、ここで擬似ユダヤ的他者論が力を発揮するのだが、その「他者」の他者性・単独性・唯一性を尊重するように語るか、それができなければ黙るかの二者択一を効果的に迫ることが可能となる。震災による死者たちや被災者たちの置かれた「他者」の場は、恐らく第二次大戦時に「天皇」の置かれた場であろう。命令的表現、震災による死者たち・被災者たちの「他者」の位置への据え付け、擬似ユダヤ的他者論の三位一体から成るこの言説装置は、したがって、3.11以前には抑圧されていた極めて胡散臭いナショナリズムとそれに伴う言論統制が新たな装いのもとに復活・蘇生・回帰することを可能としている。このように、震災を巡る詩的言説は、かつての「天皇」の縮小された反復・回帰である震災による死者たち・被災者たちを、擬似ユダヤ的他者論の「他者との関わり」という枠組みを借用しつつ、その他者性・単独性・唯一性を保証すべき「他者」という場に配置・設定することにより、震災についての語り方を間違う者に対する強制力・脅迫力を発揮する。命令を発する者とは別に、かつては「天皇」が置かれ3.11以後は震災による死者たち・被災者たちが置かれている「他者」の場所から匕首が突き付けられるところに震災を巡る詩的言説装置の強制力・脅迫力の秘密がある。もちろんこのような装置の案出は、震災を巡る詩的言説の専売特許ではない。「日本はひとつ」、「がんばろう日本」、「絆」など大震災前であれば噴飯ものと言っていいような幼稚なスローガンが一定の情報操作力を発揮しているのは、情動発動装置としての「他者」の場に位置付けられた震災による死者たち・被災者たちからのあるいは彼らを経由しての攻撃可能性の脅威が常にあるからなのだ。したがって、これらのスローガンと震災を巡る詩的言説は同じ強制構造・言説装置を共有していると言っていいだろう。両者はまた、福島第一原発事故による莫大な被害・放射能汚染・国による本来あるべき賠償や今後の事故対策・健康被害対策について語り、その当然の結果として、原発の存続を可能にする日本の支配的諸構造、すなわち、まともにものも言えない家族・諸々の共同体・組織などを支配する「空気」から始まって、東電や原発産業を始めとする産業界・大銀行・国家官僚・学会・メディアなどの諸連関に至る支配的諸構造―― つまり「日本」―― の現状を問題視することの阻止を目指しているという点でも一致している。

 それでは、「震災詩」の書き換えであると考えられる高岡淳四の「目を瞑り耳を塞がないと前に進めなかったのです」という詩は、どのような道徳的非難、そしてどのような命令を前にしての弁明となっているのだろうか?

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One Response to “自由詩時評 第47回 福田拓也”


  1. 榎本櫻湖
    on 5月 4th, 2012
    @

    福田さんが降板して反論できない状態になってからこの書きよう。卑怯です。

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