自由詩時評 第49回 有働薫

「詩行の刈り込みは必要か」

 小庭の隅のひとえの白梅がぱちぱちとつぼみをはじけさせた。開花が遅かったぶん、花数は例年になく多い。開いた梅の花を見ていると、子供の頃の正月の羽根つき遊びの羽根を思い出す。白い羽根(鶏か)を丸くカットして黒いムクロジの実に挿したもので10個ほど若草色の竿に挟んで街のおもちゃ屋さんに飾ってあった。買ってもらったことはなかったが、あれは花開いた梅の枝の象徴であったのか。枝の上に隙間なく咲いた白い梅の花たち。(羽根はもう一種類あって、こちらは細長い3枚羽根で、追い羽根遊び用。)梅は刈り込むほど花が多くつく、と隣りの奥さんのコメント。♪桜切るばか、梅切らぬばか~zと言うらしい。

 詩集といえば座布団に正座して改まったた姿だが、詩誌、新聞、リーフレットなどであれば、読む側にとっても、負担が軽く、鼻歌交じりにページをめくる気の置けない楽しみを届けてくれる。
「ユルトラ・バルズ」第19号、「ひょうたん」46号、「独合点」109号、「榛名団」2号、「space」102号、「ふらんす堂通信」、「第二回田中裕明賞」、「さてい左庭」21号、「ブルジャケ」8号、「街」93号、「パーマネントプレス」復刊準備号、「δ」31号、「エウメニデスⅢ」42号、「日々の新聞」第217号、「このいちねん」日々のブックレット1、「鮫」第219号、「瘤まとぺ」2012年3月21日発行、「極」創刊号、「喜和堂」第1号、「交野が原」72号、「馬車」46号、「街」94号…年初から3月末までに拝受した詩誌たちです。

 新しく企画された創刊や復刊も見られた。「やはり詩を!」との再度の決意の表れ、まず自分を自分の言葉で救う(救おうとする)こと、それをとおして他者の生命の温かさに触れること。友人が、自作を寄稿した詩誌を送ってくださるケースがほとんどなので、友人の作品を読み、余裕があれば他の数篇も読むといったランダムさが楽しい。友人の近況を作品から推し量ることができるし、作品が素晴らしければ、やや嫉妬も燃やし、友人の健筆を喜び、ファイト、と自らを励ます。ここで個々の作品に触れることは省略しますが、詩集にまとめられる以前の作品たちで、作者のふつふつと湧き出す声が聞こえてくる。まだ作者とへその緒がつながっている、本当には手放していない幼さを持った、髭や腋毛を生やしたままの、うろんな体臭を残した言葉たち。 

 わが身の現時点で振り返れば、こうした場で自分がこれまで書いてきた詩全体の中に自分の存在1巻があると、この期に及んで気付かされる。一人の人間がそんなに遠くまでは行けない、これほどのものでしかなかった、という思いと、これほどのものでしかないにもかかわらずこのままで現今の経済競争社会に露出すれば顔を顰められる、こうしたひとりひとりのとりあえずは非生産的な思いが社会総体を支えているにもかかわらず、それはないことにして成り立っている擬似現実世界を改めて意識する。そうやって表層的で《真面目な》社会が動いている。せめてこれらの場で生命の深海に潜るべし。「詩の枝葉を刈り込む」とは習作時代の詩作術の柱だったが、それは伝達のスムーズさという副次的部分的な方法にすぎないかもしれない。叫びは言葉を持たなくても伝わる、とは最近の読書からのフレーズだが、たぶん詩行を刈り込むことの到達点は「あなたの詩を叫びにまで還元しなさい」ということなのだろう。
今回で私の担当は終了します。1年間おつき合いくださって有難うございました。

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