自由詩時評 第58回 小島きみ子 « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト

自由詩時評 第58回 小島きみ子

「絶望」を遣り尽くす熱情を。

詩人であり思想家であった吉本隆明が亡くなってから二ヵ月半が経った。読み通してある著書は『共同幻想論(1968)』だけで、例えば「書物の解体学(中央公論社)」は、部分的に強引で、読むのを止めたのだった。それは「ヘンリー・ミラー」のところで、『なぜ、ミラーがヘッセの「シッダルタ」のような愚作かもしれない作品に、のめりこんだのかは明瞭である』と書いている。手塚富雄の名訳で読んでいるのに、信じられない読み方だと思った。それはそれとして、現代詩手帳五月号特別付録の吉本隆明2009.6.20講演「孤立の技法」は良かったし、追悼特集の追悼文は心に沁みた。佐々木幹郎が吉本隆明の文章を引いて「詩人は詩を作るが、詩もまた詩人を作ることを知らない」を反芻している。「詩が詩人を作る」とは中原中也、そして「詩人が現代思想を語った」のが吉本隆明だった。

 さて、「自由詩」というものが書かれる背景に必要なのは、「詩法と詩論」だというのが私の持論です。日本という国の自然事象と社会事情は昨年の3・11以来、大きく変化した。東北の国土を襲った津波と地震は、いかに人間の作ったものが脆くはかないものであるかを、まざまざと見せ付けた。大勢の人々の理不尽な死による絶望と、国への失望を見逃して詩を書いていくわけにはいかない、という思いが心に暗く存在する。国民が受けた痛手を、国政はどれだけケアしていくことができるか。芸術の表現者が感性に受けた痛手は大きいけれども、物書きは物を書き続けることが生き延びる方法だと思う。そして、自由詩の抒情の感性が、どのような心の仕組みの変化で、今日を乗り越えようとしているかを探っていきたい。

 思潮社の現代詩手帳六月号の特集は、「現代詩手帳賞の詩人たち」で、第50回記念作品特集だった。第10回現代詩手帳賞を1970年に受賞した伝説の詩人、大久保正博(帷子耀)へのインタビューは「帷子耀」を生きた時間が語られていて、ゾクゾクした。この特集では作品を断念している。インタビューは、詩への熱情が語られている、と私は感じた。本名での新しい仮面を被って再デビューするのだろうか、わからない。

「詩人が詩を作っている」のが現在の詩の状況であるとすれば、人々の心が希望を失っているときに響いていく言葉は、日本語の語音の連鎖から沸き起こる、美しいものへの郷愁ではないか、と思う。今は、どうしているのかな、と思っていた人も、ずっと書き続けている人も、3・11以後の日本の放射能汚染の現実を見つめれば、生き残っていることと、困難にめげず、しぶとく生き続けることによって、新たな「詩の感性」が芽生えてくるはずだ。感性とは、人の心をどのように理解し、自分の心を人にどのように伝えるか、という能力で、外界に対して情報を発信する能力である。自然が人間に与えていた恵みは、現在は、恵みとして受け取れない地域に暮らしていないと、目に見えない物への脅威は実感されない。それらを書くとしたら、芸術上の「見える物を越えた光」のなかへ、絶望を取り込んで表現できるか、だろうと思う。

特集作品に戻ると、新しい感性として、立原道造の持つ郷愁を感じさせながら、チクチクと胸を刺すのは望月遊馬。不安によるストレスが大きくのしかかっている時代には、こうした詩句は、人の心を甘くとろけさせる。六月号の作品も凍えるような青春の痛みがある。「太陽のなかで方眼紙を包む娘のようにあばずれの美を想いたい」という、純情をどこまで輝かすことができるだろうか。最終連を引く。

「魔法がとけてしまうから、はやく。あなたがあなたでいられなくなるから。雨のなかでびしょぬれになったときは眠りから覚めてしまっていて。夜の町は輝きだした。美しい。夜景のなかでいくつもの歌が始まりまた終わる。まだ、あなたのことを信じさせて。はやく。カモミールの匂いのする町をぬけて。あなたは子どものままでいて。輝いている。輝いている。輝いているから。」

 土曜美術社出版販売の「詩と思想」六月号の特集は「詩人賞、今年の顔」だった。該当作無しは、小熊秀雄賞だけで、あとは11の各賞・詩人賞・受賞者のインタビュー。なかでも日本現代詩人賞受賞者で、さきごろ九七歳でご逝去された故・杉山平一氏の「意外な驚き。感謝の思いで一杯です」という言葉に、感動した。九七歳の詩人が、日本人に向かって書いた「希望」の最終行「負けるな」という言葉。それは、やはり「書き続けよ」という意味であろうと思う。天上への凱旋の光が迎えに来るまで書き続けた詩人だった。

 また、中也賞受賞の暁方ミセイさんの「一生にわたって変貌を遂げ続けながら、現在を去り続けること」という言葉にもなんという潔さよ、と思った。「鞄の中身は、死んでしまった少女のまなざし(スーイサイド)」で現在を去り続けていくのだろう。

 詩論では、「詩論へ4(首都大学東京現代詩センター)」は、北川透・藤井貞和・福間健二・瀬尾育生の四氏がじっくり取り組んだ論考で、個人的には、「純粋言語」について考えていた最中だったので、瀬尾育生氏の「純粋言語論/山村暮鳥と萩原朔太郎」は興味深いものがあった。

五月に届いた、散文詩誌「サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち5」がおもしろかった。榎本櫻湖の雑誌編集の狙いと、同人たちの作品は、榎本櫻湖という詩人の熱情に感電している青年たちの良さが表現されていている。櫻湖の「春の祭典」の構成は良いと思う。「乙女よ、処女よ、処女膜よ、」は、語呂はいいのだがもうどこかで何度も聞いた台詞のように感じたのだが、いかがか。

 絶望の時代が、芸術に望んでいるのは「美と精神(スピリット)」ということではないだろうか。この二つに含まれているのは、美に拡大されたグロテスクと怪奇だろう。ランガージュという言語の舌の熱さで、言語の襞、まだ見ぬ精神(スピリット)の芯を、眼の上に生えた獣の眼で見させることだろう。詩の希望とは、絶望を遣り尽くすことだからだ。その意味で、「耳空」vol.8.の毛利一枝さんの「写真・迷い道シリーズ」は、「美と精神」を獣の息で見せてくれたと思う。

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