自由詩時評 第60回  金子鉄夫

あ、どうも。金子鉄夫です。ちょっと遅れましたが挨拶を。「詩客」も第二期に突入。第二期もこの時評担当を任されはしたものの、陽気な春うららからうっとしい梅雨の日頃に入ったこの時期、さらに前回よりもケツの穴ゆるみっぱなしで呆けている金子の鉄夫ですが、第二期も無いオムツをしぼって現代詩のプリっとした新鮮な話題を届けていくつもりなので何卒、レディース&ジェントルマン、おいしそうな赤ん坊から骨になる手前のご老人まで、よろしくお願いします。

さて、というわけで今回も始まってしまった金子の時評である。今、これを書いている現在、〆切、間際でどうしよう、と考えているフリばかりでは、この原稿の白い闇は埋まらないのでベタに賞の話題から書きだしてみよう。第五十回の現代詩手帖賞である。受賞者は、その男っぷりが生臭ぇ女子共を騒がしている依田冬派。僕自身、最初はヨダトーハなんて男のクセに女々しい腐った名前だなぁ黙れバカっって百%、偏見でバカにして碌に作品も読みはしなかったけれど、受賞と決まればミーハーのうすっぺらな血が騒ぐのか、気になってあくまでも興味のないフリで作品に目を沿わせてみた。

  不幸は無限にあり、空腹でいるあいだは色盲だ。
 きみは林をぬけて食卓につくと絵の具のみどり、むらさき、きいろを乳母の瞼にかさねてゆく。ねんいりにラインをひくゆびさき。一本の代採にたちあってから人々の視力はみるみる低下した。川面にクジラがあがるものか。あれは屍体のかたまりだ。辺境から辺境へ。

 (「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」より抜粋)

だろ?何がだろって?やっぱり偏見はいけませんねー。題からして「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」だぜぇ?こんなことを書いてしまえるのは依田冬派自身が詩に対する確か愛をもって、脂ぎった現代の凡百の詩と確かな距離を保ったうえで書きたいことに対して切実にならなければ書けないだろう。散見される依田作品の要だといおうか上記した「不幸は無限にあり、空腹でいるあいだは色盲だ」のようなキラーフレーズが、言ってしまえばアフォリズム的なキナ臭さがキナ臭くひびかないのは、依田作品が明確に伝達したい宛先を設定してるがゆえなのだろう。僕自身、これが依田冬派に共感する「あたらしさ」なのである。何気ないが、切実な「ぼくときみの物語」。それはとても現代的な殺伐とした物語かもしれない。が、依田冬派は不器用なまでに伝えたいことがあるはずなのだ。しかし、それを剝き出しのまま伝えてしまえば「きみ」との関係が破綻してしまうのが、現代の物語だ。だから依田冬派は高度なレトリックで剥き身を偽装しながら書く。ゆえにその作品には蜻蛉のように淡い映像美が、依田冬派の本意を匂わせながらたちのぼる。そして、それは紛れもなく美しい抒情だとおもう。とにもかくにも依田冬派は、堀川正美、清水昶のキラめく抒情の才能の系譜に属した新しい世界を見せてくれる書き手である。その他、第五十回の投稿欄には選者の平田俊子、渡辺玄英に託けていうわけではないが、他ジャンルと大いに隣接性をもった、オルタナなタレントが揃ったんではないか。名前を列記すれば栗山括弧、藤本哲明、紺野とも、久石ソナ、疋田龍之介などなど。皆、今までの現代詩とはひと味、違ったポップなハラワタをみせてくれる魅力的なタレントたちである。今号の「現代詩手帖」の特集は現代詩手帖賞の詩人であるが、そっちを捲ってみればクソほどにつまらない作品を書いている人もいる。それに較べて、まだまだ未知の才能が犇めく投稿欄がやはり一番、面白いページだと僕は、おもうのである。

ざまぁみさらせぇ、現代詩は趣味的な玩弄物じゃねぇんだ。いつだってなんどきだって未知の言語態に書きかえられカオスと化し、あたらしい世界を見せてくれるジャンルだと僕は信じる。他、趣味的に書き垂らされた日々の戯言的な詩なんてなくなればいい。(あくまでも僕の意見だが)・・・と今回も僕みたいなぺーぺーが息まいても誰も聞いてないとはおもうが、それも一興である。

さてである。ここでいつもながらの字数の心配である。エコーをくわえながら(ますますどこもかしこも不景気だ。次の時評時には消しゴムのカスをガムテープで巻いて吸ってんじゃねぇーか)字数、字数と呟きながら最近の詩壇とやらについて考えてみる。考えるといったが、実はさっきからこれを書いている隣でトグロ巻いている詩集があるのだが・・・この詩集について書くのは恐れおおい。がしかたない。前回の投稿欄の受賞者で、文字のマシンガン連射で読者の頭をぶっとばし、飛び散った脳みそを貪りながら不気味に笑う現代詩の怪人、榎本櫻湖の第一詩集「増殖する眼球にまたがって」。帯文から「この本に決して触れてはならない」などと書かれていて(じゃぁ、それに従おうともおもったんだが)人を喰っている。恐る恐るひらいてみれば、やはり文字、文字、文字。栞文に野村喜和夫が「この途方もない言語態」と書いているが、これはもはや文字の泥沼だ。その泥沼にズブズブと足を取られるように読みすすめてみれば「どくだみ健康チャンネル」や「夏の輪姦学校殺人事件」なんてクラクラするような詩篇に突き当たったりする。投稿欄時代にも増して榎本櫻湖の猟奇染みた諧謔精神にますます磨きがかかって読者は、この文字怪物の奴隷になるだろう。一読して(この書物は決して一読なんて可能ではないのだが)、やはり榎本櫻湖は、多くの人が言語と捉えている形ないものを物質性はなはだしく図々しく弄び、それを積み上げながら理想宮を建設したのではないか。そうまるで郵便屋シュヴァルのように。完成された榎本櫻湖的理想宮はジェンダーなどはトランスしてクソと尿とザーメンでドロドロになりスカトロジックでいて典雅なニルバーナの容貌を帯びている。これは圧倒的な、まさに圧倒的な詩集である。というか圧倒的な奇書の類なのではないか。

と後はその奇書を手にとって確かめみればいい。引用をしたかったのだがこれこそどこをどう引用すればよいのか皆目、見当もつかない。

まぁ字数もこれで十分じゃないかなぁ。前回の時評で筆がヌメヌメに滑って詩は「ラブ」だなんて三十路にちかい男がこっぱずかしいことを吐いてしまったが、依田冬派やその他、投稿欄の詩人たち、そして榎本櫻湖の作品に触れながら、やはり対象がなんであれ詩は愛について書かれるべきだとおもう。が、これを書いてる今も、もうすぐ五時になろうとしている白けたダルな時間だ。あしからず。

今回、「昔は今」は書きたい作品が無数にあって整理がつかないので次回ということで。

どうやら今回、第二期イッパツ目も乗りきれた。このうっとうしい梅雨を過ぎ次回の金子の時評時は夏も近く、今年も街中にはまぶしいフトモモが氾濫するアバンチュールな季節の到来である。僕も(本当はフトモモとが良いのだが。)ますます極まる現代詩にしゃぶりついてアバンチュールしたいとこである(何、言ってんだバカっ)

それでは、この「詩客」を覗いているしかめっ面が似合うニヒルな皆さん、また次回。

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