自由詩時評 第61回  森川雅美

死者と向きあう

「私たちはもはや死ぬこともできない」

先日、辻井喬さんが現代詩人会の名誉会員の挨拶で話した言葉だ。辻井さんは、「確かに戦争中は悲惨であったが、死ぬ理由は見いだすことができた」とも語った。もちろん、この理由は歴史の中で理不尽な死を強いられた者の、「理由付け」に過ぎない。とはいえ、今の私たちにはそのような、「死の理由付け」すらできないのではないか。とはいえ考えてみれば、戦争であれ災害であれ、突然訪れる死には理由付けはない。ただ意味もなく死ぬだけだ。もし、死後というものがあるならば、そのような死者は自らの死すらわからずに、彷徨っているのかもしれない。しかし、人間はどのみち突然死ぬのである。「メメント・モリ」、死を忘れるな。私たちは突然死ぬ存在である、ということ忘れないことが大切だ。

詩歌も死と向き合うことを続けてきた。和歌の誕生期である天平時代は飢饉や天災、戦乱の時代だったし、源平の争乱、戦国時代など動乱の時には、大きな変化の胎動があった。自由詩を見ても、その草創期には北村透谷と島崎藤村がいる。透谷は死者(異界)を発見し、自由詩の中に取り入れたし、藤村は死者の生き得なかった美しい夢を作品にした(と私は思っている)。そこには幕末明治の動乱の時代の、多くの死者たちのまなざしがある。いうまでもないことだが、戦後詩は、第二次世界大戦の死者を問うことから出発している。もちろん、動乱の時代だけでなく、平穏な時代でも、詩歌は死者の視点を含んでいる。死者は生きている者にとって絶対的な他者であり、絶えず遠くから批判のまなざしを注いでいる。

ならば、今の若い世代の詩はどのように死者のまなざしをまとっているのか。最近刊行された2冊の第一詩集を紐解いてみる。作者は2人とも20代。

まず最初は中村梨々『たくさんの窓から手を振る』(ふらんす堂)。比較的言葉も構造も平明で読みやすい詩集だ。死者のまなざしは内部の他者として、現在の「私」を相対化するように設定されている。

あなたが泣くのを我慢して
茶色だらけの雨染みのような床を見てしまうときは
あたしはきみどりというきみどりの窓を破って
空に晒すと思う
今日も
そんな仕打ちで
空に晒されたあなたには空が見えない

(「指先より先にあなたにたどり着くために」)

もちろんこの「あなた」を、すぐに死者に繋げることはできない。しかし、ここに現れるのはあきらかに、いま地上にある視線とは異なる。どこか遠い場所から眺めている、とても不安定な、肉体を喪失したような視線だ。「空に晒されたあなたには空が見えない」、という行はそのような視線を明確に表している。あなたは死者ではないとしても、そのまなざしには多分に死者の意識がまじる。「わたし」は「あなた」を晒すことによって、かえって「あなた」のまなざしに晒されている。「わたし」は「あなた」のまなざしによって相対化され、遠い風景の一部として配置される。それは詩集全体に共通する構造で、奥行きとなっている。詩集の最後は日記調の散文詩だが、その前の事実上の締めになる詩から引用する。

踏みならされた土から足が簡単に
生えてだれだったか
あなただったか知らないけどりっぱに
伸びていく

(「残響」)

遠くから批判的に注がれた「あなた」のまなざしは、「生える足」という(それ自身かなり不気味だが)、ごく近いイメージに重ねられる。その意味においてはもはや、「わたし」を相対化するものではない。「わたし」の中の遠い死者といってもいいような、「あなた」をもう一度殺すことで、次の可能性を暗示し閉じると、読むこともできる。「わたし」は、様ざまに変相する遠い「あなた」との巡りの後に、帰還するのだ。話し言葉の比較的平明な言葉のうねりが、そのような軌跡を、青春と呼ばれる一時期の痛みとして、伝えるのが詩集の魅力だ。ただ、そのような効果を導く、平明な言葉のリズムのために、異なる質の言葉が混ざり合わず、境界は明確であるのが、物足りないのも否定できない。

 もうひとつの詩集、金子鉄夫『ちちこわし』(思潮社)は、はじめからそのような境界がこわされている。この詩集も主に話し言葉で書かれているが、はるかに乱暴で暴力的である。力技といってもいいような、異質な言葉が詰め込まれている。この「ちちこわし」という題名は、そのような詩集の言葉の特性を象徴的に表している。「父」「乳」「遅遅」「壊し」「壊し」「強し」など、様ざまな意味に取れるが、どれと限ることはできない。とはいえ、言葉の見た目や音が、奇妙なイメージを喚起する。とても不穏だがどこか悲しくもある感触だ。意味に向かいながらその寸前で止まる言葉の動きだ。詩を読むとそのイメージはよりくっきりと浮いてくる。

ここで首から下だけ改行
なんて無理な話
うねうねでうねうね
うねうねでうねうねの逃亡のさきに
盛りあがってくる
あなたを壊すパニック

(「ちちこわし」)

なんとも不思議な言葉の動きだ。「うねうねでうねうね」とうい体感的な言葉の動きのため、言葉の歩行は遠くに飛ばされる。言葉は日常の多彩で雑多な場から発せられながら、つねにそこから外れより遠くに向おうとする。さらに、また遠くから近くに戻る、振り子運動の繰り返しである。さらに、この詩では「国ノ道」のような、わずかな言葉の挿入で従来の意味を超えていくような動もある。このような言葉の動きには、明らかに遠い誰か、死者のまなざしが滑り込む。詩はいかにも自然体に見えるように、用意周到にそのような方向に言葉を積み重ねていく。詩集の結びを引用する。

そうだろママ
ただ今はここにぶらさがって
やわらかなやわらかなケムリを吸いまくって
毛むくじゃらの質問の意図にグリグリ
偽りの日々なのさ

(「されど偽りの日々」)

これは誰の声なのだろうか。確かな現在の声でありながら、そこだけには落ち着かない。とても距離のある場所からの声に思える。そのような印象はどこから湧いてくるのか。全ての詩に共通するのは、繰りかえされる行と、意味のない音だ。引用部分でいうなら、「そうだろママ」と「グリグリ」がこれにあたる。先の引用部分でいうと、「うねうねでうねうね」がそれにあたり、繰りかえされる言葉が意味のない音と重なっている。あるいは、引用部分のようにややシニカルな呼びかけが、繰りかえされ詩も少なくない。これらがうねりとなって言葉を、遠い場所に運んでいく。その声が遠くからの死者のまなざしとして、今あることを批判し続けている。その基盤には自らも死ぬものであるという、確かで誠実な認識がある。

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