自由詩時評 第63回 岡野絵里子

「震災を遡る」

ふたつめの夜があけると 
たくさんの土地の名があった 
その上を目で歩いていく 
名を呼んでいく 
 
閖上(どう よべば いい?) 
 
立ちどまって 
いくつもの辞書をたずねても 
みつからず 
 
閖上(もんのむこうに みず が) 
 
ゆうぐれの書庫でたどりつく 
ゆりあげ(なんと かこくな 名なのだろう) 
 
【閖】 (國字) 
ゆる。ゆり。ゆれる。 
水波激蕩之状 
【閖上】ゆりあげ 宮城縣の地名 
 
諸橋轍次博士は 
仙台藩の地誌からの用例をのせていて 
 
『大漢和辞典』巻十一を重く閉じる 
その日いちにちのいとなみは 
その日のわたしのいのりのかたちだった 
 
みっつめの夜があけると 
さらに多くの土地の名があった 
 
いくつめの朝だったろう 
いくひゃくいくせんの人の名があった 
閖上と記されたところにも 

草野信子 「ゆりあげ」

 この5月にジャンクション・ハーベストから刊行された詩集「三月十一日から」より。大震災に関しては多くの言葉が発信され、また詩誌の数々で特集が組まれた。1年4ヶ月余りが過ぎてまだ、解決されない問題が残り、草野信子氏の「ゆりあげ」が心に痛い。

 何か特別の儀式をしたわけではない。漢和辞典を調べ、日々の仕事を果たしただけである。だが、その姿勢はまぎれもなく死者に対する鎮魂であり、詩人がなすべきことは、このような詩を書くことなのだと思わされる。人であるとは深い水源を持つことだ。多くの人命が失われ、生き残った自身も水が枯れるように思う。他人の悲しみを本当に思いやれるのは、自身の水底にも悲しみを沈めている人なのかもしれない。被災地の報道に心を痛める時、その地名の一つが「ゆりあげ」と知り、被災との偶然の一致を苛酷と感じる時、数千人の被災者に祈るかたちとなって一日を過ごす時、詩人の内の悲しみが灯って周囲を照らす。その光の一つがこの詩なのだと思う。

 詩集「三月十一日から」は柴田三吉氏との共著で、草野氏の6篇、柴田氏の7篇が収められている。柴田氏の「小さな神々」「掌の林檎」も詩の香気を失うことなく、被災の日を伝えている。

 詩人自身が被災した記録は、清岳こう「マグニチュード9・0」(思潮社2011年11月)を筆頭に、どれも忘れられない叫びであり、呟きである。清岳氏の「あらゆる情報から孤立し、何が起こっているのか分からないまま、四日目くらいから詩が胎内から噴き上がるように次々と生まれました。詩にすがりついていたのです。詩を書いていないと生きている心地がしなかったのです。詩を書いてさえいれば何とかなる気がしていました。」(あとがきに代えて)には驚かされる。詩が詩人にとって生命そのもので、血管を血液が巡るように、言葉が彼女を生かしていたのだろう。

 しかし、詩作する詩人の傍らで、転がり込んで来て何もしない夫が非難を浴びせる。「また 原稿を書いているのか?人の不幸をねたにして」。

 翌12月には、月刊詩誌「柵」で、中村不二夫氏がこの詩集を取り上げている。「ここでの男(註: 夫のこと)は、巨大な権力を持つ世間というアレゴリー。世間はある特定の磁場を形成する集合体ともいえるし、個人個人の顔を持たない存在であったり、いずれにしても実体はない」。だが、そこから前進できるか否かが詩人の正念場なのだと、文章は続く。

 中村氏は大震災の3ヶ月後から「大震災の中の詩と詩人」の連載を「柵」で開始し、2012年4月まで続けた。5月からは、大震災後の詩を読むというテーマで「希望の詩学」を連載中であり、その「現在」にまっすぐ向き合う姿勢には敬意を覚える。

 この「大震災の中の詩と詩人」第1回では、3月15日にハンギョレ新聞に発表された高銀の詩「日本への礼儀」を早速に紹介し、AERA誌での養老孟司の提言「人生は何のためにあるのかという質問に意味がないのは、人生はいろいろな問題に対する答えだからだ。(中略)探すべきものは『答え』ではない。この震災から『問われているもの』は何かということだ。」について具体的に踏み込む。

 氏の評論は、時に地平を広げ、時に歴史を遡って鮮やかな通路を開く。連載では、現在を見つめるために、日本における過去の大震災が検証されたが、それによると、関東大震災の折、当時の作家、詩人たちが「何も書けない」と無力感に囚われた事実があったという。それは、芸術は生活の余剰にすぎないという見解を、書き手たち自身が示した残念な前例に思われる。

 自らの無力、非力からの出発とよく言われるが、震災時の無力を詩の無力と混同しないように留意したいと思う。私の住む浦安市は液状化という被害に遭い、ライフラインが切断されてしまったことがあった。砂に埋もれ、建物の傾いた街に、希望と励ましの言葉と共に大量の切花が届いたが、これはお気持はありがたいが、困惑ものであった。人間が飲む水の一滴がない時に、花と花瓶を満たす水などあるわけがなかったのだ。だが、だからといって、全国の生花業者は、花が無力だとて悩み、廃業しなければならないのだろうか?花の場合は自明でも、詩となると詩人は勘違いして苦しんでしまう。その元祖は巻頭大震災時の詩人の言動にあったのではないか、と中村氏は指摘しているわけである。

 1954年には、第5福竜丸が水爆実験の灰で被曝する事件に対し、日本現代詩人会がアンソロジー「死の灰詩集」を刊行している。中村氏は、Britain Todayで詩人スティーヴン・スペンガーが言及したことも示しながら、鮎川信夫の痛烈な批判、「戦時中における愛国詩、戦争賛美詩をあつめた『辻詩集』『現代愛国詩選』などを貫通している詩意識と、根本的にはほとんど変わらない(中略)水爆の出現に象徴される現代文明の背景を、立体的に理解しようとせず、うわっつらで抗議やら叫喚の声をあげているだけのものが多い。そしてそのほとんどは、復讐心、排外主義、感傷に訴えようとしている。」を掲げる(「柵」297号)。

 そして、「それと対極にあるのが、絶対正義をバックにした震災詩で、それ以前の湾岸、イラクなどの反戦詩もそれと同じ言語レベルにある。おそらく、修辞的には絶対悪の愛国詩も絶対善の震災詩も変わらない」(「柵」307号)。と、厳しい目を現在の私たち自身に向ける。

 また、関東大震災のち復興の名のもとに社会状況が悪化したことも考察される。一度は自然の脅威に伏して敬虔な精神に還り、共同体意識や相互互助の精神も生まれたが、やがて崩壊、ニヒリズムを根底に享楽化、頽廃化へと向かってしまった。私たちは長い愚かな道のりを経てきていたのだ。

 だが、「希望の詩学」と名づけられた通り、私たちは希望を持たないではいられない。氏も、高見順賞の贈呈式が大震災への配慮から延期になり、翌年の贈呈式と合同で行われたことに、詩人の良心と見識を見出す。人間が愚かであることの答えのように、私たちをめぐる状況は厳しい。「絶望が深まっていけばいくほど、差してくる希望の光は相対的に鋭い。それを信じて生きるしかない。」という言葉を、私たちも信じることから始めたいと思う。

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