自由詩時評 第66回 相沢正一郎

ちいさな詩のおおきな世界

まず、北原白秋の「露」を読んでください。

草の葉に揺れいる露の
落ちんとし、いまだ落ちぬを、
落ちよとし、見つつ待ちいて、
落ちにけり。驚きにけり。

草の葉の朝露に宇宙を見る、といった感性は日本の古典にもよく見られます。自然のちいさな舞台の一瞬をすくいとって、読後、水滴の動きの緊張感とユーモアが、まるでおおきなドラマを見ているような気になりませんか。

白秋を、もうひとつ。「庭の一部」

さあ、朝飯だ。
真紅な、ちらちらする、
コスモスの花が三つと、
穂の出たばかりの小さい唐黍、
なんとこの庭の一部の
幽かな、新鮮な秋。
あ、郵便が来た。

朝、空腹を感じてテーブルに着く。庭に秋の気配を見つけます。そのちいさな驚きが、《あ、郵便が来た。》の破調とひびきあいます。この「郵便」が、なぜかいい知らせのような気がするのは、朝、新鮮な秋が届けられたから。「朝」といういつもの時間、「庭」という閉じられた場所に、外の世界から何かよい出来事の予感のさざなみが……。

 「庭の一部」とは、まったく作風が違いますが、どこか厳粛さのある秋の気配とさわやかな朝のささやき声は、西脇順三郎の「天気」を連想してしまいます。

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日

「天気」には「郵便」といった生活感が消され、やってきたのは「神」ですが。

この詩の季節は、冷たさを感じはじめ、身が締まってくる「初秋」なんでしょうか。はじめに「露」の詩をご紹介したからでしょうか、「覆された宝石」から、朝露のイメージも浮かんできました。(西脇は「旅人かへらず」の詩人でもありますから、それほどトンチンカンでもありませんね。だとすると、「初夏」でしょうか。また、「天気」は、詩集「Ambarvalia」の冒頭の詩ですが、「アンバルワリア」とは、ラテン語の「穀物祭」のことだそうですから、五月の「初夏」)。

ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。季節が気になる、というのも、俳句の国の住民の発想でしょうか。また、この詩を読むたびに宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のはじめて銀河鉄道が登場するシーンを思い浮かべてしまいます。

さて、「ちいさな詩のおおきな世界」といえば、一行詩。はじめに北川冬彦の「馬」。

軍港を内臓している。

以前、校正の仕事のとき「内蔵」を「内臓」とまちがえた苦い経験があり、この詩を読むたびに思い出します。また、「馬」「軍港」「内臓」といった無関係な単語が一見、落語の「三大噺」のように結び付けられていて、ロートレアモンの『マルドロールの歌』のあの有名な「手術台の上のコウモリ傘とミシンのように美しい」といったフレーズを思い浮かべます。

だからでしょう、作者自身は「あるとき白玉山(旅順港にある山)の上から、登ってくる馬を見ると軍港をどっ腹にはらんでいると見た」とありますが、私には自分の内側にある闇だが、自分の意志でコントロールできない、グニョグニョ蠢く巨大な無意識。そんなイメージ。

もうひとつよく知られた安西冬衛の一行詩――

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた

この詩の題名は「春」。あたりまえですが、すぐれた短い詩は、タイトルがみないいですね。詩の体裁、行間、一字アキの呼吸、リズム、ことばのひとつひとつに神経が行きわたり、血がながれている。この詩でも、太鼓を打つような「ダッタン」とひびく鼻音と、空気を打つ「てふてふ」のかろやかな羽音。ちいさな蝶と大海原。

サハリンとアジア大陸の海峡は、「間宮海峡」と呼ばれていて、はじめ「韃靼海峡」ではなく「間宮海峡」だったそうです。もし「間宮海峡」のままだったら、こんなに愛唱される名作として残っていなかった。そんなふうに思います。

蝶は疲れて休むとき、片方の羽を海に浮かべ、もう片方をヨットの帆のように立てるんだそうです。

三好達治の詩「土」では、

蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのようだ

暑い夏、蟻が蝶をひっぱっている情景。題名が利いています。しゃがみこんで見ているんでしょう。土のにおいがします。いつのまにか足もとの土が真っ青な海に。三好達治は『ファーブル昆虫記』を翻訳しています。昆虫を素材に、ウイットとユーモアを感じさせる作品。

三好達治といえば、「雪」ですね。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

民家の群落に、しんしんと降り積もる雪の無限の静けさが、ことばのひびきと溶け合っています。ノスタルジアは、妙に深いところまで揺さぶります。

田中冬二の「くずの花」にも、民話の味わいがありました。

ぢぢいと ばばあが
だまつて 湯にはひつてゐる
山の湯のくずの花
山の湯のくずの花

まるで俳画のようです。黒薙温泉のとろりとした湯に黙って浸かる老人夫婦の生きてきた長い時間を感じますね。「湯」は、胎児の羊水の記憶でもあるような気がします。

田中冬二の詩を、もうひとつ。「春」。

すぺいんささげの鉢を
外へだしてねてもよい頃となりました

 

今夜から明日の朝へかけて
太平洋の沿岸は
暖い雨になるだろうと
海洋測候所は報じてゐます

懐かしい手紙のような表現が、近づいてくる春とぴったり。明るい透明感が、うるおいのある世界にひらかれる窓のようです。

最後に、私の好きな谷川俊太郎の「芝生」。

そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ

三好達治の「土」というタイトルがすごくいいなあ、と思っていますが、負けず劣らず、この題名「芝生」にも感心してしまいます。舞台は絶対「芝生」以外に考えられません。

この詩について谷川俊太郎自身の解説によると、「どこかからの贈物のように、夢遊病的に得た作」とのことです。私も生涯に一度でいいですから、こんな贈物を欲しいんですが、第一詩集『二十億光年の孤独』で、すでに「あの青い空の波の音が聞えるあたりに/何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい//透明な過去の駅で/遺失物掛の前に立ったら/僕は余計に悲しくなってしまった」(「かなしみ」)と書いた詩人のからだから生まれた詩であることはまちがいありません。「DNA理論」の影響の影響もあるそうです。

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