物語から離れて物語に
自由詩にとって「物語」とは何か考える。
自由詩には「物語」はないという考え方はできる。「物語」を多くの散文のような(もちろん散文にも例外はある)、一方向に向って収束し世界をかたち造るものと考えるなら、自由詩に物語はないといえよう。しかし、「物語」をそのように堅苦しく一方的に考えないなら、詩にもまた「物語」はある。
例えば、どんな難解な自由詩であっても、言葉には何らかの温度がある。思考の動き、歩行の動き、手の動きといっても良い。そのような自律的な動きは、詩を貫く背骨のようなものである。詩全体を覆うものであるなら、「物語」の一種と考えても良いだろう。建築家の思考ではなく庭師の思考があるように、散文の「物語」ではない自由詩の「物語」もある。散文の「物語」が積み重ねられ、意味に集約されていくものだとしたら、詩の「物語」はむしろ意味から繰り返し、そして果てもなく離れていくものだ。もとろん、集約されていく「物語」に沿って書かれる自由詩もある。そのような自由詩は一般受けする。しかし、いくら丁寧に書かれていても、どこか物足りないことは否定できない。「物語」を骨組としない自由詩の構造においては、そのような視点からは、あくまで作者の言葉しか現れない。作者を超えた意識のより深い層には届かない。あたかも見知らぬ町で路地に迷い、会ったことのないしかしどこかで記憶する風景に出会うように、道に迷うこと、それが自由詩の楽しみであり、そこに「物語」を見いだすことができる。
前回と同様、若い書き手の第1詩集を紐解いてみる。白鳥央堂『晴れるよりもうつくしいもの』(思潮社)。まだ20代。何重にも重なりずれや躓きを孕み増殖していく、世界を語ろうとして語りえない言葉が、投稿の頃から気になっていただけに、待望の1冊だ。冒頭の詩から引用する。
きのうとおとといの街のポスターに
あなたのなまえをみたよ ということは
ぼくはいま、どこかその辺りには いない
少女が
泳ぐのは
世界史の内がわ
クレバスで引くクレヴァス、とほうもなく巨大な
隔たりを手に伏せる 敷紙は、十二月の絵手紙
あなたの街にあす十字架を封じ込めた小さなビー玉が降る(「宙に消え入る歌」)
読めばすぐ分かるように、言葉は語りかけのリズムによって動いている。モノローグではなく、明らかに他者に向かう言葉として記されているのだ。とはいえ、明確に明示できる語りかける他者はいない。あくまで任意の誰か、名付けられない他者への語りかけだ。そして、語りかける他者が任意であるということは、語りかける声もまた任意であるといえる。それがゆえに声は宛名のない手紙のように、ただよい読むもの内側に落ちる。さらに、「少女が/泳ぐのは/世界史の内がわ」というような、凝似的な俯瞰の視点を挿入することにより、奥行きがもたらされ、声は個人のものだけではない色彩を帯びる。
湖底に束ねられた偽書へ
腰かけた妹は 七生子の髪を喰うだろう
次第に旧くなる外もまたひと束と数えられ 叫べない部屋を埋めるとしても
落ち髪のいつか凪ぐまでは
夜の訃報に被せられる二の腕は ぶれることを知らない(「遮音室」)
このような部分を引用すると、詩はより深く神話性を偽装するのが分かる。「偽書」「妹」「落ち髪」「夜の訃報」など、神話のアイテムに満ちている。しかしこの引用の中で、最も気になるのは、「七生子」という固有名詞だ。「七回生まれる子」というのは実に暗示的だ。詩はそのような神話的世界を装いながら、深めることなく横滑りするように動いていく。とはいえ、そこで止まったり消えてしまうのではなく、伏流水のごとく潜行し、何度もかたちを変えて現れる。それが微妙なずれを創るため、詩の世界は幾重にも増幅される。「物語」の型にはまることを周到にさけながら、「妹」「七」などのキーワードを軸として、たえず語りかけとして編まれていく。常に思考よりも早く、歩みが言葉を生み出していく。
そして徐行するように継続を予感させつつ、以下のように仮に結ばれる。
未意味の警笛を晒す
風晒しのきみのぐりぐりが跳ねる!
さようなら、だが、
(燃える蹄鉄を口に入れ、舌べらのなかで結ぶ)
終わる、ということがあるものかよ
(結んだ言葉を舌先に乗せる、夜の子供は朝を思い出した、そして青い月の透き通る真昼の幼
年が始まる、いま)
じゃあ、
またね、(「亡羊と、ぐりぐりのきみへ」)
前回取り上げた金子鉄夫の詩もオノマトペを多用していたが、この詩集でも重要な役割を果たしている。ただ、同じオノマトペでも言葉の動きが異なる。金子のオノマトペが、強く身体性を押し出しているに比べ、白鳥にオノマトペは段差や距離がある。もちろん、身体性は帯びているが、より強く演技性を感じる。当然のことだが、詩の言葉は日常の言葉ではなく、あらゆる詩の言葉は演技の部分を強く持つ。その意味では金子のも白鳥のもオノマトペは、演技のしぐさとして書かれている、といって間違いでない。とはいえ、金子のオノマトペがリアルな演技を求めるのに対して、白鳥のはただリアルとは違うもう少し前衛的な演技に思える。このことは詩集全体に及び、少しだけ地面から足が浮いているような感触がある。根底には日常の物語を断念する覚悟があり、言葉は物語りつつも物語に収まることから外れ、渦を巻くうねりとなってさまざまなものを巻き込んでいく。そのような中から「さようなら、だが、」「終わるといことがあるものかよ」などの生に近い声が浮かんでくるとき、現在を生きる悲しみが浮かんでくる。最後の「じゃあ/またね」といいう短い2行も、なお歩き続ける足を感じさせ、まだ書かれない次の言葉に向かって、広がっている。