自由詩時評 第68回 金子鉄夫

 ノブオは「おれ曲がったことが大嫌いだからさ」となんの衒いもなく口にするバカなやつ。会えば、いつも骨髄からねじ曲がっているであろう僕を、ノブオは諭すようにバカにする。少し年上だからハイハイって表面では頷いて内心では僕もノブオを心底、バカにしているのだが、どちらかといえば世の水準からみれば僕もバカの部類。バカがバカにしてバカがバカにされてバカが泥沼化した全く非生産的な関係。でも僕はこの関係が嫌いではない。それは多分、「おれ曲がったことが大嫌いだからさ」と言ってしまうノブオのねじれにねじれた「にせもの」っぷりを多々、知っているし、僕もねじ曲がって真っ直ぐから外れている「にせもの」。だから同じムジナ感がここちよい・・・ってなんで自由詩の時評で

人から金かりてまで風俗に行ってしまう大いなる「にせもの」ノブオの話をしたかって?それは大江麻衣のその名も「にせもの」という詩集の紅色に表紙を捲ってみたから。以前、大江麻衣を巡って城戸朱理と高橋源一郎のくだらない言い争いがあったのも頭にあって、ただただミーハーな気持ちで捲ってみた。

 中途半端で完成されていないから、本物が一番でそれ以下であるから。ただの真似。個性のないわたしの顔に何かをいろいろ当てはめて、福笑いをしている。

(「好きなもん同士で組んで」より抜粋)

 この詩集の各詩編のうらがわにひびくのは、うすっぺらいツラした「ほんもの」に対して、あまりおおげさな身振りではない、ささやかな呪詛。しかし世の大きな「ほんもの」に対してというよりも身辺単位まで縮小された身近なわたしを取り巻く「ほんもの」と「にせもの」。それを所謂、女性詩人的な感性で書くのでなく至って女子的な生理感でメールでも打つように(決して散文的といっているわけではない)気負いなく曝け出しているところに歪さがにおう。女性詩人が書く「ほんもの」(これもうすっぺらいんだが)の現代詩には回収され得ない、「にせもの」の切実さが痛いけれども、疎外感などという安易な感情の上に成立さすのではななく、あくまでも「にせもの」でやっていこうとする、これもささやかだが意地を感じる。まぁなにが「ほんもの」でなにが「にせもの」なんていうのは、そいつの感性次第ではあるが、それを超えた情報が多くの事柄を支配し区別し差別する世だ。くだらねぇっておもったりもするが、結局、そこで生きていかなければならないという当たり前の前提がある。けれども、この大江麻衣の詩集のように少しでもうすっぺらい「ほんもの」に対して派手に中指を立てるのではなく、ささやかだけれどズラし疑問符をソッと差し出し僅かな呪詛を吐き続けること、陰口からでもいい、うすっぺらい「ほんもの」をバカにし始めることが必要だったりすんじゃないか。それを繰り返せば見えてくる真摯な願いだってあるだろう。最後の作品「引かれない手」。各詩編と微妙に違うトーンでまるで漏らしてしまったように書かれた秀作である。「死んだことがないから、大丈夫、と言えない/みんな死ぬのに、言えない/ただ手を引いてあげたい」。「にせもの」をひるがえして到った願いだ・・・ってまたいい加減なことを書き連ねて悦に入っている金子鉄夫ですが遅れましたが、こんにちは。そんな「ほんもの」の世はオリンピックだどうだって「がんばれニッポン」なんて益々、あつい、というかあつ苦しい2,012年の夏ですが、皆さんも夏らしくバカ面を曝してますか?くだらねぇな、おいってくだらねぇで思いだしましたが今月号の「詩と思想」の特集の見出しが「反原発の詩と思想」。どうです?くだらないでしょう。なにも「反原発」がくだらねぇって言ってんじゃない。(まぁ個人的には「反原発」なんて、大きなテーマは知らないし身近なひとが笑っていればそれでいいんですが)

 もう少しセンスの良い見出しがつけられませんかね?この雑誌自体、ずっと僕はケツの穴が小さい雑誌だとおもってましたが・・・別にそれに対して「現代詩手帖」が素晴らしいとも思ってないですが。あぁセンス良い見出しで、また思いだしましたが今号の「びーぐる」の特集の見出しが「関根弘を想起する」これは、まぁ捲ってみようとおもう見出し。(まぁ詩誌のセンス自体、どれも似たり寄ったりで中には何を考えているかわからない盆栽趣味的な吐き気を催す表紙の詩誌もありますが)

死んだネズミ 
 
生まれたての赤ん坊は 
目があかない 
それでも赤ん坊は赤ん坊 
 
死んだネズミは 
目をさまさない 
それでも 
ネズミはまだネズミ

 とりあえず手元にあった関根弘の短い作品を引用してみたが、その昔「荒地」に拮抗するように詩史で俯瞰すれば重要な詩誌「列島」の編集長を務めていた詩人、関根弘。今ではあまり陽のあたらない詩人、関根弘。かつてアバンギャルドが真に前線であった時代に長髪を掻きあげ挑発を繰り返していたアバンギャルド詩人、関根弘。その作品はときに弱音を吐いてしまったり牧歌的だったりするが、そんな綻びをも引き受けて書こうとした詩人であるようにおもう。今、「びーぐる」を捲りながらただ現代詩のアーカイブか遺産を引っ張り出してきて懐古的に関根弘を読むのではなく端的に関根弘が貫いた社会派アバンギャルドなヤリ方が今もって有効だということを感じる。詩は青春の文学だと(多義的だが)嘯いてみたり何気なく綴った編集後記を突かれた「狼論争」が象徴するように存分に、そのヤリ方は綻びを曝しているが、それも一興だというように最後まで闘い続けた姿勢に僕のようなぺーぺーは憧れたりもする。岡庭昇が冒頭のエッセイで書くように「アバンギャルドは基本的に様式ではなく闘いである。」そう、アバンギャルドであること。(社会派である必要はない)使い古されたダサい単語ではあるが、間違っても騙しても誤魔化してもアバンギャルドであること。今、現代詩を含めたまわりを省みても様式ばかりにこだわり過ぎてヨダレをタラタラしているようにみえる。多分、明確にNOという相手がぼんやりして(確かに大きな相手はいるのだが)想定できないから「みんなちがってみんないい」と平板化してヨダレたらして現状の様式に即して満足している。それでいいわけがない。ダメなものはダメだし、ダメなもののそのクビを絞めて殺さなければならない。大江麻衣の箇所で書いたように「ほんもの」、「にせもの」、「いいもの」、「わるいもの」、なんてそいつの感性次第であるが、だからこそ感性から血を流し続けて見極めNOと露にするため前線で闘わなければならない・・・ってあまりなにを書いているかわけがわからなくなってきた金子の鉄夫ですが、まぁとりあえず「びーぐる」を手にとってみてください。

 さて、今回は特に時評の体をなしてないかもしれないですが考えてみれば僕も冒頭でも書いたように「ほんもの」と「にせもの」でわければずっと「にせもの」でやってきたくち。最近も「ちちこわし」という詩集で大いに「にせもの」っぷりを曝したのですが数少ない反響のなかに「バカが調子にのるな」と心あたたまるメールがありました。そうです。結局、バカで「にせもの」ですが、そんな悪口も厭わない綻びだらけの生身で闘わなければ・・・って、そのメールをくれた人と殴り合うことができれば簡単に解決するんですが、そうもいかない世の中です。まぁ僕は単純に明日も笑っていたいとおもうし、だからこそ闘わなければ・・・ってまたわけのわからないことを吐き散らしいますが、それも「にせもの」の所業ということで。

 もう戯言を吐くのも疲れたので、最後に、どうせ「詩客」なんて読んでいるひとは詩人か詩人あこがれてる人でしょう?間違ったらいけない詩人なんて最初から「にせもの」のピエロなんだ。だから笑ってなきゃいけない。そして心に匕首と花束を忍ばせて闘わなければいけない。なにやっても「にせもの」だからこそさぁ。しかめっ面にツバ吐いて!

ま、じゃ、さようなら。

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