自由詩時評 第69回 森川雅美

「詩客」時評 森川雅美

まずは見ることから始めよう

 まずは見ることから始めよう。 
 剣豪宮本武蔵も、「剣術で最も大切なのは目だ」といっている。これは藤冨保男さんの講演の言葉だが。2番が足で3番が心、そして1番が目ということ。ちなみに、技は4番目でさして重要ではないとも。 
 もちろん見るといってもただ見るだけではない。「凝視」という言葉がぴったり合うだろうか。事物を徹底的に見つめ、表層だけでなく本質まで視線を貫こうとすること。現在を見つめ認識し思考する視線、といっても良い。そして、詩の言葉もそのような視線に根底を支えられている。 
 ここに2冊のまったく異なる詩集がある。 
 
 1冊は内海和子『漂流する秋』(私家版)。 
作者は福島県伊達郡国見町に在住している。幸い内陸のため津波による被害はなかったが、その後の原発事故では高い放射能にさらされ被害を受けた。1931年生まれで現在80歳を越え、戦中戦後を生きてきた世代だ。詩集はそのような現在と歴史のふたつに足を掛けながら、構成されている。弱い違和としての現在と、その因ともいえる過去をしっかりと捉えつつ、連綿と続いてきたひとの時間を、言葉にしている。 
特に冒頭に置かれた、原発事故後に書かれた6編は、切断した時間を描きつつ、なお続くひとの時間をとらえている。この時評で以前に取り上げた、表題詩「漂流する秋」や、先週の月イチ連載で藤井貞和さんが引用した「ヒル いでそうろう」などは、この詩集の世界を、最もよく表しているだろう。しかし、同じ引用は芸がないので、異なる詩から引用する。 
 

春菜を洗う 福島原発から八十キロ界わい摺上ダムから来る水で 
あの日突然起こった悲しみの時から地軸は一巡し 今 信達盆地は 
原子炉崩壊で流浪を余儀なくされた人々の仮寝の宿 あちこち 
揺れ返す大地の波動は 放射能の汚染プール 冥い沼を揺らし 
瘴気は地を這い 朽ちるに任せる浜の家々に 記憶は浮遊するくらげ 
追われた人々の生きる気力を日毎奪う 痛みの針 

(「春菜を洗う」部分)

 
 大変な出来事を描きながらも、目は極めて冷静に現在の状況に注がれている。悲劇性を強調したり、感傷に陥ったりすることはない。また、類型的で安易な救いや癒しの方向も、丁寧に避けられている。自分のことや気持ちを書くのではなく、事実をなるべく正確に捉える視点が徹底されている。「冥い沼」「浮遊するくらげ」など、喩も大げさな表現は避けられている。できるだけ目撃者の立場に努めるゆえに、「追われた人々の生きる気力を日毎奪う 痛みの針」という行が、読む者のなかにイメージとなり響いてくる。「春菜を洗う」という昔から続く日常の営みから、思考が始まっているのも、現在という一時点にとどまらず、長い時間を引き入れ、詩の広がりになる。もう少し続きを引用する。 
 

ふるさとをゆえなくむしばまれた人々の犠牲を見ながら 
それでも私たちはまどろみからほんとうに覚めただろうか 
覚めきることができるだろうか 
ここちよい日常は私たちを容易にはほどかない 
あの世界の断崖から滑り降りた時ほどの再生に 
おのれの座標を定められようか

 ここまで来ると詩の意識は、より「私」を客観視する位置に立つ。「私」を見るもうひとりの、批判する「私」が浮き上がってくる。詩は被害を受けた立場、より深刻な被害を受けたものがいるという認識、どのような出来事も日常に埋もれてしまうという批判、へと緩やかに移行していく。さらに、批判とはいっても、言葉は声高になることなく低い位置からの確かな眼に支えられている。その眼は自らに刺さる痛みであることも、充分に理解されたうえで、言葉は出されている。「それでも私たちはまどろみからほんとうに覚めただろうか/覚めきることができるだろうか」という言葉は、現象だけでなく、その奥にある要因をとらえ批判している。現在を起点として目はその奥底までとらえている。 
 
 もう一冊は望月遊馬『焼け跡』(思潮社)。西日本に在住する20代の詩人だ。生活区間も生きてきた時間も内海とは全く異なる。手法的にも、直接日常から出発するのではなく、日常を寓話化、象徴化したうえで、現在を描き出そうとしている。『漂流する秋』がドキュメンタリー的な骨格を持っているとするなら、『焼け跡』は実験的な物語詩といってもいい。とはいえ、当然散文的物語ではなく、多くの段差や飛躍をはらんで詩集は構成されている。そして、不規則な歩行ゆえに、現在を生きる一人の若い詩人の生のリズムが、明確な流れとして伝わってくる。詩集の冒頭を引用する。 
 

夢のまわりベッドのなかでも指をくわえていた。指がふたつ。ならんでいるから(異常に冷たい)砂にベンチ/が置かれていた(日)のどこか遠ざかっていくような雨のことや、潮がいくつもみえる。泳いでいる。/泳いでいない。パンを食べる。パンの赤いジャムをゆっく(衛星)り飲みこむ。アルバムのなかの画像/が歪んだ。テレビのなかでも、指がふたつ、ならんでいる(から以上に冷たい)ならんでいるように見え/るだけだ。

 ここには現在の状況は直接には何も描かれていない。事物が的確に描写されているだけだ。しかし、描かれている風景はとても不穏で、惨劇の後という印象すらある。「指がふたつ」「砂にベンチ」と、風景は統御されずバラバラなままに広がる。あるいは、現在の日本に生きる一人の若者の荒涼とした精神の寓意、とでもいってみようか。しかし、ここにも現在を見つめる目は、的確に働いている。言葉はその眼の動きによって紡ぎだされる。だからこそ、風景は生の形をえぐるような痛みとともに、読むものの中に落ちていく。詩集の最後に近い部分を引用する。 
 

白百合が咲いている。大きな巻貝のなかで眠りについている黒人のやさしさ。 
なぜまた生きようとしているのか、わからない。わからないから有機物になっ 
て、穴のなかに沈みたい。 
 
「蜜を舐めたい」 
「舐めていいよ。ここについてる」 
「都会にいきたい」 
「いっていいよ。ここで待ってる」

 いくつかの緩やかな抒情の流れが、フィナーレに向かって、集まってより大きな流れとなるような、詩の意識が高まる部分である。「白百合」「大きな巻貝」「黒人のやさしさ」と鮮やかなイメージが提示された後、意識の深奥に眠っているような声が押し出され、その声を相対化するようなモノローグ的対話へと続く。先に引用した冒頭部分が、目の移動により言葉の流れが創られたのに比べて、構造はかなり複雑だが、ここでも目の動きは確かに生きている。その眼の動きがあるからこそ、声もありがちな独りよがりの感傷におちいることなく動いている。発せられた声と、その声を、あるいは声を発した誰かを少し離れて見つめる目。この二つが交差したところに、詩は成り立っている。そのような隠れた視線があるからこそ、「「おはよう」/「ピース!」」という、最後の一見感傷的な2行も、そのようなジェスチャーによってしか生きられない、現在の生の象徴として痛みを伝える。 
 
 これまで2冊の詩集は全く異なると書いてきたが、それはあくまで書き方の問題、武蔵がさして重要でないといっていたと藤富さんが語った、「技」の問題であり、根底にある言葉を支えているものは、案外遠くはない。現在をとらえる、生きている人間の確かで正確な眼と、自らを含めた全体の構造を批判する言葉の動きだ。 
 初めに戻ろう。まずは見ることから始めよう。 
 ここからが次の一歩だ。

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