自由詩時評 第74回 瀬崎祐

 1年ぶりに詩誌「Aa」5号が届いた。
 今号では5人の同人、高塚謙太郎、タケイ・リエ、荻野なつみ、疋田龍之介、望月遊馬、が「ニコニコした魚の起源に浮かぶ酒のはなびら」という同じタイトルで作品を書いている。
 5編の「ニコニコした魚の起源に浮かぶ酒のはなびら」のはじめの部分をそれぞれ引用してみる。作者名はとりあえずは伏せておく。

こんこんと音だけがうっすらと見えはじめ、もしくは散ることに近寄ってい
る。そこが湖の面という潔さをはかるところだとして、ようやく音をすえた
物腰の豊かな文彩が、はるか遠くのはじまりから偏差の波を漂わせ、その
各々の波の頂から滑る面をなぞって、幾千もの花が散っていくのが見える。

 与えられたタイトルで作品を書くということは、その与えられた言葉が自分の中に抱えていたものとぶつかりあう、ということになる。あるいは、与えられた言葉によって自分の内にあったものが発火される、といってもいいかもしれない。
 単純なイメージとしては、通常に作品を書く時には、自然発生的に生まれた言葉を自分の中から取り出しているように思い込んでいる。それに比して与えられたタイトルで作品を書く時は、意識的に自分の中にあった言葉を探し出してくる、というイメージになる。
 このふたつの場合にあらわれる言葉の差異を考えてみると、実は担う意味にはそれほどの違いがないことに気づく。

 それは、与えられるものが”主題”ではなく、”言葉”であることにもよる。主題を与えられた場合は、当然のことながらそれはかなりの束縛を強いてくる。しかし、与えられたものが単なる言葉である場合は、それまでは自分でも意識していなかった事柄を惹起してくれる触媒の役割を果たしてくれる。
 今回は与えられたタイトルが単純な一語ではなく、いくつかの具体的な名称を組み合わせたものになっているところも、触媒作用が複雑になる効果を高めているだろう。

玄関から揚がったことはありません 
もともとそういう種類ですので 
裏庭から堂々と釣り上げました 
 
なまぐさい話をすることもありますね 
しらふですが酔っているので 
つまみに困ったことはありません

 さらに、与えられた言葉によって探し出されるのは、常に揺れ動く自分の、それはその時の自分ということにもなる。もちろんなにがしかの時間的な猶予はあるわけだが、その言葉を与えられた瞬間の自分が抱えていたものがあらわれるわけで、他の時の自分が抱えていたものではない。その時の自分での勝負となるわけだ。これもぞくぞくとするようなことである。
 かって、ある敬愛する人から、「詩で大切なのは、何を書くかではなく、いかに書くか、だ」と言われたことがある。こういった言葉との勝負をみると、なるほど、とも思う。

私はいぼいぼの花弁に覆われて
紙魚のむらがる壁の古書店で働いています
むすがゆい産毛の舌打ちが聞こえます
おそらく脛のあたりも這っています
こちらがお願いしているわけでもないのに
いちいち唾液を手につける癖のある常連がめくりながら差し出す
五千円札のしおれるような触角にまとわれる職場です

 今号では、同時にもうひとつの試みもなされている。どの作品の頁にも作者名が記されていないのだ。最後の素っ気ない目次のような頁にタイトルと作者名が列記されている。したがって、その最後の頁を開くまでは、誰がどの作品を書いたのかを知らずに読むことが可能なのである。

 これは、作品にまつわる、というよりも作者にまつわる情報、緒事情を知って読む場合と知らずに読む場合の違いは何か、作者についての情報は作品を読む場合に必要なのか、ということを改めて考えさせる。
 言いかえれば、作者についての情報は作品の価値に意味を付与することができるのか、ということに行き当たる。

太陽のむこうで傘が舞いあがって
そのむこうで雨を眼に浮かべていた
わたしは水平に投げだされて
あらゆる町が夢のなかでうまれかわる
あの子は
どこにも来ない
ブランデーがあふれる口のなかで泳いでいた

 たとえば欧米の映画では聖書の知識を前提にして作られていることは珍しくない。聖書に精通していない者には制作者の意図は十二分には伝わらない。これは文化的風土の差異であるから致し方ない側面はある。
 聖書を知らない人は、あるいは般若心経を知らない人は、それらの敬虔な信者の作品を読む時には、その作品の裏にあるもの、あるいは作品が成り立つ基礎のところにあるものを理解することはできない。その人の読みはそれでかまわないのだろうか。たとえば宮沢賢治を読む時にはその生涯を調べて彼の理念を考えながら読むべきなのだろうか。

 作者に関する情報の有無による作品の受け取り方の違いはかなり厄介な問題を孕んでいる。そのどちらもを誤りと決めつけることはできないが、それでいて両者にはどうしようもなく明らかな違いが生じる。
 いったい、作者の情報が付いてくることは作品にとって幸せなことなのだろうか。

9回ウラだよどうしてくれんの、 
ってきみがさ 
ぬるいビールをほそっこい喉に流しながら言う 
水につけたカレー鍋の底に 
いくつものあいづちがゆらゆらただよう魚になって 
ゆくあてなく息をしている

 ちなみに、5編の作品の作者は、順に、高塚謙太郎、タケイ・リエ、疋田龍之介、望月遊馬、荻野なつみ、である。

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