自由詩時評 第75回 金子鉄夫

 イライラするんだぜぇ、日々、ムカつくヤツらのツラをまえにしてイライラするんだぜぇ。かつてのチンピラ詩人、正津勉の詩ではないが、ムカつくヤツらを公共的な場所で、四つん這いにして一直線に並べて片っ端から肛門にダイナマイトを突っ込んでヤりたいって、どうも、どうもチンピラ詩人というか、ただ単にチンピラも満更じゃない金子鉄夫です。今回も金子鉄夫の時評の時間ですって、こんな殺伐としたグランジーな気分じゃぁイケねぇってことで穏やかにするにはカルチャーだ、文化に触れなければってことで、いろいろ触れるどころか舐めまわしてみたんですが、根が雑きわまりないからハイな物は肌に合わず、正津勉やらスキャッター・アートの始祖ポール・マッカーシーなどを触れたら逆に脳みそグワングワン、ブクロをフルチンで疾走しそうなぐらい発狂寸前で、こりゃダメだってことでゴミだらけのボロアパートの隅っこのほうで爪噛んでジッとしていたところに救われるように舞い込んだ小川三郎の新詩集「象とY字路」。

歪むだけ歪めば平和をもたらす 
そんなこと 
あるかもしれない。 

 (「Y字路」より抜粋)

 この詩集には所謂、メガロマニアックな現代詩特有のしたり顔した仰々しい詩語など皆無で、言葉を過剰に遊戯させて、どこかここではないどこかへ向かうようなしみったれたロマンチシズムなどは戯言だといわんばかりに、紛れもない、ここへ立つために言葉をひとつひとつ噛締めるように詩を紡ぐ。その小川三郎の有様は、タフだ。そんなタフ・ガイ小川三郎は、メタボリックにデブッた、もしくはエクササイズのヤリ過ぎでガリッた多くの昨今の現代詩のなかにあって第一詩集「永遠へと続く午後の直中」から一貫して、そのタフなヘルシー体を維持し続けている。では、その小川三郎のタフさはどこからくるのか。

稼いだ金は全部この街で使った。 
身体はこの街の血液だった。 
あの煙は 
私の身体を焼いた煙だ。 
折れ曲がって寡黙に流れて 
ひとの息の根を止めてもなお 
鼓動をとめずに 

(「街煙」より抜粋)

 小川三郎は多分、内臓から強靭だ。やはり身体の内から強いのなら自然に、その面持ちもツヤがいい。その内で日を追うごとに電脳化はなはだしく、ますます複雑化するプロレタリアの愛も憎しみも悲しみも怒りも、すべてを消化して、あまたの詩人が「うすっぺらな」な皮膚感覚でおさまりをつけるところをストレートな内臓感覚で書く。そこにはヘタな難解さなど介入する余地もなく、あるのはタフな血色の良い抒情だけだ。それは所謂、現代詩の抒情性(わざとらしく血を吐く自虐的な、ということは結句、承認欲求でしかない軽薄さ)と百八十度、赴きを異にした真っ直ぐな肉体派の抒情。これが小川三郎を現代詩の領域のなかで特筆すべき詩人たらしめているところだとおもう。なんにせよ、僕が云々と語る前に小川三郎は登場からずっと「良い」現代詩を書き続け、「現代」をハズしてみても、タフな心強い「良い」詩人である。それは小川三郎自身がリスペクトする辻征夫が、現代詩、いや、詩の「良心」であり続けたように、小川三郎はこれからも詩の「良心」であり続けるだろう・・・って僕が御託を並べて吐き散らしたところで小川三郎を読む人は読むだろうし読まない人は読まないんだろうなって。小川三郎に失礼ですが、本当に小川三郎のような詩人がひろく読まれることを願っている次第です。というのも、今、詩壇という便秘した閉域を眺めてみても、もう詩を書くのをやめたらいいんじゃねぇのって、読まれる価値の終わった詩人がうじゃうじゃいて、まぁ腐れジジイとババアの詩人に多いんですが、そんなヤツらに限って、詩とはってゆるくなった下半身同様、垂れ流す。そんなヤツらは若い書き手の作品をろくすっぽ読まずに、ただ頭ごなしに否定して自らの立場を死守することに血眼、立ち回りにシコシコ。くだらねぇなぁって。詩とはって語ってるけれど、ワリぃなっ、僕も詩の話をしているんだけれど、あんた達が言っている詩と僕が言っている詩は違うのさ。長生きなんてするもんじゃねぇ・・・と誰が、この時評を読んでいるか知らねぇけれど、あまりに字数が足りないのはブサイクだから、ストレンジな言葉が浮遊する装丁からサイケデリアな望月遊馬の「焼け跡」の話を少ししよう。この詩集、時期を逃してしまったし、僕が書くまでもなく多くの人が取り上げているとおもうので私的な感想だけで終わらせようか。榎本櫻湖氏が主催する散文詩だけの同人誌「サクラコいずビューティフル」で、この詩人の作品に初めて触れたとき、知覚の扉の、その向こう側で様々な色の電光が乱れ飛ぶようなサイケな筆法に、行を這う眼もスパークしたのですが、その詩人の詩集となればいわずもがな。一読して、その素寒貧な総題とは裏腹に望月遊馬的、ドリーミィーでいて不穏な、それでいてポップな、と読んでいるこちらの感想もチグハグしてしまうぐらいのめくるめくサイケデリア。ただ、そのサイケデリアに全く日常性が欠落しているかといえば必ずしもそうではない。日常を異郷へ送信しつつも、主体は、その返信を待つかのようなクビの皮いちまいの「生活感」が随所に顔を覗かせている。そこが「焼け跡」すべての作品に通低しているゾッとするけれども楽しい望月遊馬のフットワークの取り方だとおもう。そのフットワークで遊び心満載な恐るべき小児性的ユーモアーをひるがし、この「焼け跡」という詩集は、チープな言い方をしてしまえば「天才」な分裂具合が鼻歌を歌う気軽さでフラットに張っている詩集だ。

あたりは洗剤の匂いがしているので 
髪をとかすのに苦労する 
どうしてなのか 
また 
知らない下着に執着してしまう 

(「アキレス腱の憂鬱」より抜粋)

 私的な感想で、もうひとつ言わせてもらうならば、サイケ・ポップの不滅の名盤、ビートルズの「マジカルミステリーツアー」を詩に翻訳したならば、このような詩集になるんじゃないかって根拠なく印象だけでおもう・・・って、やっつけで時評を書き終えて、ますますイライラするぜぇ、まだまだイライラするぜぇ。ついこの間もエラい詩人に、今の若いヒトはここがダメだって、詩とは、なんて話があってくだらないねぇ。てめぇらのために書いてんじゃねぇ。確かに、あなたたちに学ぶべきことはたくさんありました。けれど上から矯正されてクビを締められる謂れはない。「あなたたちの立場ではあなたたちが正しいけれどぼくたちの立場ではぼくたちが正しいbyボブ・ディラン」じゃないけれど、僕「ら」は次に詩に出会う素晴らしきルーズなクズ共のためにカッコいいヤリ方で書いていかなければならない。更新され続けた詩の歴史にキメられて、全き新しい書法を産み出すのは不可能に近いかもしれない、だが、これから詩に殉ずる一人、一人がワイルドにアウトサイドをいきつつ、メインストリームに突如、手榴弾を投げ入れるような蜂起的な詩を目指さなければならない。

・・・って、まぁ誰も聞いてないとおもうけれど、ブクロのゲラゲラ(ネカフェ)からクソッタレに愛を込めて。またね、バイバイ。

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