自由詩時評 第78回 森川雅美

物語ではないかたち

 突然だが、「自由詩」の「自由」とは何か考えてみる。

 「現代詩」というとわかりやすい。現代の状況を現代の言葉で書く詩、とでもいうのか。しかし、「自由詩」というとわかるようで、実のところは分からない。この場合、「自由」と対極にあるのは「定型」。「短歌」や「俳句」、個人というよりは座のかたちである「連歌」や「連句」、さらに、今はあまり使われない「旋頭歌」や「仏足石歌」など、様ざまな「定型」がある。もっとも、「定型」とはいえその形が絶対なわけではない。「短歌」や「俳句」を見れば、字余りや字足らず、句跨りなどがあるし、より極端な場合は自由律や多行もある。とはいえ、かたちをいくら崩しても、その元には「定型」があるのは否定できない。とするなら、「自由詩」ははじめから「定型」によらない、あるいは「定型」がわからないくらいにかたちを壊したり融合させたかたち、ということはできるだろう。もっとも、それが日本語の表現として可能かは考える必要はあるが。 
 もうひとつ日本語で書かれる形として、「小説」がある。「小説」も「自由詩」と同じように、かたちがないと思われがちだが、はたしてそうだろうか。確かに、「小説」には表面上のかたちの決まりはない。その意味においては「自由」といえるだろう。とはいえもっと突っ込んで考えるなら、「小説」は物語るかたちということもできる。もちろん、「自由詩」にも物語る部分がないわけではない。とはいえ、同じ物語るにしても、両者には大きな違いがある。もちろん全てが当てはまるわけではないが、前者が物語るための語りや人物を置くのに対して、後者は物語る言葉、あるいは言葉の意識そのものといってもよいかもしれない。「物語」を創る言葉の運動と物語るそのもの言葉の運動と、言い換えてもよい。

 そのようなことを考えながら、斎藤恵美子『集光点』(思潮社)を読んでみる。無駄のない言葉で的確に語っているという意味では、優れているのだろう。とはいえ、読んでいくとどこか膜に突き当たるようで、何か物足りなさを感じる。まさにこの詩集は、「物語」を創る言葉の動きで成り立っている。

刃を動かして、一文字一文字、版木の中から 
取り出すように 
いとおしむように彫り上げられ、印刷された経文の 
肉筆から肉体へ、時間を、遡るようにして 
祈りと会う

(「木版」部分)

このような言葉の運動が、詩集の基調リズム。言葉は丁寧に選ばれている。丁寧に物語を創っていく、語る言葉の動きゆえに、言葉は理路整然とした方向に流れていく。その意味においては「小説」か「エッセー」の部分の行わけという印象が否めず、「自由詩」の最大の魅力である、言葉が大胆に飛躍し高低の激し起伏を創る、ダイナミズムが弱い気がする。もちろん詩だろうが小説だろうが、そんなものはどうでもいい、読んで良ければいいという考え方もある。しかし、それならなぜ、かたちのないかたちという自己矛盾を含んだ、「自由詩」というかたちを選んだのか、問いたくなってくる。

柴田千晶『生家へ』(思潮社)も同じような疑問を感じた。もっとも、この詩集は物語を創ることを前面に出しているので、そんなことは考えの上だと作者はいうかもしれない。さらに、小説やシナリオも書く作者だけに巧みで、作品は怪異譚としても現在の孤独な生の象徴としても、楽しむことができる。かなり文字数も多い詩集であるが、飽きることなく最後まで一気に読ませる筆力も、そうざらにはいない。

気のせいだろうか。 
俺の背後で、妻が、今、ずれてしまった目鼻を外しているような気がしている。 
いや妻の背後に狢になった設楽がいるような気がして、 
俺はどうしてもふり向くことができなかった。

(「錆色の月」)

 詩集の最後を引用した。確かに、この詩集は『集光点』とは違い、物語の枠組みを戦略として使っているところがある。さらに俳句まで入れて、3つのかたちを合わせて、1つの表現にしようという試みがある。つまり企みが深いのだ。ならなぜ「詩集」という形で作品を提示したのか。最初にも書いたように「自由詩」は何でも取り入れることができるからだ。その意味では企みは的をえている。ただ、詩集はいくつかの相互に関連する章に分かれているが、各章の終わりは引用部分のようにまとめられている。いわば言葉は物語の中に閉じられたまま収束するのだ。これは「物語」を枠として構成した必然であり、結びだけの問題でなく、詩集全体にわたる言葉の動きといえる。そこに問題がある。力量は十分にあるのだから、できれば、「物語」だけでなく、言葉も拡散し迷宮に迷い込む動きを見せる、詩集が読みたいと思うのは、読者のわがままだろうか。

 小川三郎『象とY字路』(思潮社)はどうか。かたちはすべて行わけで、語りも滑らかに自然で、まさに詩といった印象がある。しかし、この詩集にもやはり躓いてしまう。「物語」のための語りを、強く感じてしまうのだ。そう思うとどうしてもそこから先に飛べなくなる。

殺しても構わないんだと思います。 
そのくらいは 
してくれてもいいでしょう。 
別に禁止されているわけじゃないんだし 
あなたが居てくれれば心強い。

(「因数分解」)

 このように引用するとわかるのは、語りのリズムが短編小説を思わせることだ。まさに初めに「物語」があって、「物語」を物語るために言葉がある。そのことが言葉のダイナミズムを削ぎ、詩を「物語」の内に充足させていることは否めない。さらに、私のような読者には、語りは悪を装っていようとも、その奥には作者の「倫理性」が垣間見え、鼻白んでしまう。「倫理性」は戦後詩を語るキーワードの一つであるが、あくまで書く態度についてのことであり、この詩集とは違う。この詩集では、「倫理性」はより表現の表に浮かび、「倫理性」を語るために「物語」が創られ、語られているのでは、とすら思えてしまう。これでは言葉が窒息してしまう。

 このように書いていると、飛躍とか言葉のダイナミズムとかにこだわる森川は古いとか、そんなことをいっているから「自由詩」は一般読者から離れていくのだ、などという声が聞こえてきそうである。とはいえ、より誠実に「物語」と距離を取る言葉の動きで、書いている詩人もいる。野村喜和夫『難解な自転車』(書肆山田)、高貝弘也『白緑』(思潮社)を引用してもいいが、いまさら私が取り上げるまでもないと思いつつ、より私性の「物語」が強いと一読では思われる、辻井喬『死について』(思潮社)を引用したい。

おそらく今 里山では春の陽射しがうららかで 
その輝かしい空間をかすかに翳らせて 
しずこころなく花が散っている頃だ 
そう想像した時 僕が待っていた部屋の 
「手術中」という赤いランプがまたついた 
今度は成功するかもしれないと僕は思った

(「病院にて」)

 詩の結びの部分だが、引用部分と先に引用した『集光点』や『象とY字路』の部分を、比べていただきたい。確かに、どちらも物語る声ではあるが質は異なる。前者二つは先にも記したように、語るよりも先に「物語」があるが、後者は語る声がまずあり、語る声が「物語」をかたち創っている。では違いはどこから生じるのか。それは語りとの距離の取り方だ。前者はともに語りが全面的に肯定され「物語」は閉じている。一方後者は、もっとも私語りに見えながら、語り自身が批判的な視線に晒され突き放されているため、距離ができている。しかも、語りは微妙に作者と重なり、反面離反するずれのために亀裂が生じ、詩は収束せずに開ける。そこに物語る声そのものが浮き上がってくる。

 では、このような現実の「私」の似せ絵を描かずに、語る声そのものを前面に押し出すことはできるのか。阿部日南子『キンディシュ』(書肆山田)から引用する。

前足をそろえて神妙にご馳走を待つ猫の 
ぱたぱた揺れる尻尾の先で 
こよい 
亡き人の気配が慎ましく踊っている

(「三月の旅」)

 詩集の末尾を引用したが、今度は『生家へ』の引用と比べてもらいたい。『生家へ』は、「気のせいだろうか」「気がしている」「気がして」など、語り手は俯瞰的ないわゆる「神の視点」に位置している。一方この詩集では、物語るにしても、このような視点は執拗に避け、できるかぎり、見たまま聞いたままを語る、物語作者ではない日常の人間の言葉を保っている。目や耳に徹しているといってもいい。さらに、さまざまなしゃべり言葉で記すことによって、語りはより声そのもの近づく。あるいはさまざまなプレテクストからの引用。いうまでもなく、これらは小説が積み上げてきた技法だ。小説の糧を逆手に取ることで詩集は成り立ち、現在の「物語」を語るのではなく、現在を物語る声になっている。表面には出ない博覧的知識が下地にあればこそ現れる言葉だ。

 このように書いてきてわかるのは、今さらいうまでもないが、「自由詩」の表現がいかに技法に負うことが大きいかだ。ほんのわずかな書き方の違いで、全く違うものになる。そして、いま「自由詩」に求められているのは、つくられた物語の語りではなく、物語る声そのもの、生身の人間の声だろう。現在も過去もそして可能なら未来も行き来しながら、物語の人物や物語作者ではなく、ここにある人の声の現出を、私は夢見る。そして、そのような声こそが、現在を語りえるだろう。実際、藤井貞和や高橋睦郎や白石かずこなど、何人かの詩人はそのような声に近づいている。ただ、私たちは自らの身体感覚すら確かでなくなる、テクノロジー革命の時代を生きていて、そのことがより表現を困難にする。そんな状況の中で、より若い詩人からどのような言葉、声が出てきているのか、考えていきたい。と思ったが、だいぶ長い文章になったので、続きは次回に。

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