赤い新撰「麒麟から御中虫への手紙だよ」の真相/筑紫磐井

御中虫の赤い新撰「このあたしをさしおいた100句」が終ったところで、今度は主客逆転して御中虫の作品を批評できる人をと相談したところ候補に上がったのが、四ツ谷龍と西村麒麟だった。この二人を選んだのは、私ではなく御中虫だったし(だから選んだ理由はよくわからない)、この二人に依頼したのも御中虫だった。私にすれば、ただ、原稿がすたすた届くだけである。だいたい、この赤い新撰「このあたしをさしおいた100句」の連載自身が異常であり、こんな編集の仕方は決してしないであろうと言うような経緯で始まり、進み、終っている。詳しくは、スピカの<つくる>、「5月の35日間」でたっぷり書いておいた。編集者にもフラストレーションを発散させる権利はあるはずだからである。

さて、西村が第1回目を書くときの約束で、第1回目の私の序文で書けなかったことを締めくくりで書いてくれと西村麒麟からいわれた。早い話、赤い新撰「このあたしをさしおいた100句」も赤い新撰「麒麟から御中虫への手紙だよ」も読者をだましまくった批評なので読者に対するそのお詫びを私にしろというのである。けしからん注文である。

どんなお詫びかというと、まず、御中虫と西村麒麟は会ったことがない(!)。御中虫の写った金閣寺の写真もない、キリンの彫刻を送られたことはない、芭蕉の文庫本も送っていない、桃缶も送っていない、桐箱入りの桃も送ったこともない、湯呑みを送ったこともない、ホッチキスの針と画鋲も送られたこともない。あるのは、俳句と短歌を送ったことと、御中虫が退院して結婚する準備に入ったことぐらいだろうか。私は、ひそかに、西村麒麟がデートしたのもあり得ないのではないかと思っている。

一方なさそうであるのが、第4回以降の御中虫の手紙で、これは本人の手紙。けっして、麒麟の創作ではない。麒麟の手紙を読んでいるうちに御中虫はうずうずしてきたらしい。御中虫はこの手紙から復活してきている。

さて、俳句に虚構は許されるが(許されないと考えている伝統派の人が8割くらいいるのだが、声の大きさと露出度からいったらそれは少数派であるから許されるとみておこう)、さすがに批評・評論の虚構は許されないと思われている。しかし、嘘でしか伝えられない真実があると言うのは芥川龍之介以来言われていることだ。

台無しだ行く手を阻む巨大なこのくそいまいましい季語とか

そんな事言って、ほんとは好きなくせに、虫さんってツンデレですよね、みんな知ってるけど。

泣いたり吐き出したりう○こしたり、ほんとは気持ち良いんですよね、ゲロを吐くような気持ち良さ、爽快さ、そんな明るさがあります。

虫さんのゲロは「愛してるぜー」と聞こえなくもない

こんなやり取りや鑑賞は、年配の俳人にはちょっと手に負えないが、俳人の大半が感じている深層心理を間違いなく詠んでいるし、それを的確に評者は指摘している。「季語は生理のようなものだ」ぐらいは普通の評論家がぎりぎりで言える言葉だから、新しい批評としてこんないいかたはあってもよいだろう。その中にどれほど虚構が混じろうと。

虚構と言えば、私は西村麒麟に会ったことすら記憶にない。ただ西村が言うには、事実会って、こんな会話を交わしたと言う。

麒麟「僕は磐井さんの実作のファンです、高濱家シリーズ面白かったです」
磐井「それは道を誤りましたね」

たぶんに虚構ではないかと思うが、如何にも私の言いそうなセリフなので有ったことにしてしまおう。ただ、最終回の

近いうちに、四ッ谷さんと磐井さんのおごりでジャンジャンやろうぜ!

これは私があまり言いそうにもない虚構だから無視しておこう。

それにしても、西村のような「古志」の優等生が、御中虫と虚構上であれべたべた付き合っていいのか、また私のファンであるなどと言っていいのか心配であるが、その返事は、

麒麟「みんな震災の件で悪く言いますが、良い先生なんですよ、十年ぐらいしたら褒める文章も書いてください。あんなに悪く言ったのに怒らなかった長谷川櫂は偉大である、とか。」

だそうである。もちろんこれは私の虚構である。しかし虚構の中にこそ真実はあるものだ。

西村の真実に触れたければ、むしろ「スピカ」の<きりんぽろぽろ 1・2・3>を読んでみるとよい。自作に自注を施してその半生涯を語っている(それでも相当虚構が混じっているが)が、葛西善蔵の私小説を読んでいるようなもの悲しさを感じ、この若さ(29歳)で何という境涯におかれているのかと涙を誘われる。

きりんぼろぼろ1

きりんぼろぼろ2

きりんぼろぼろ3

その意味で、極めて短い(俳句より短いこともある)文章は確かに逸品であるが、あまりにも名品過ぎて、間にはさまれていた俳句をしばしば忘れてしまうことが難と言えば難である。読み終わった後で、そうか西村麒麟は俳人を志していたのかと気がつくのは寂しい。いまや私のように俳句以外の道に野心を持つか、立派な俳人となるためにあまり余計なことをやらないか、人生の分かれ道に立っているようである。虚構のない真実は、常に葛藤を迫るものであり、やはり虚構に実を置くに越したことはない。いや、若い人に余計なことを言ってしまった。

その意味で余計なことながら、何で西村は批評家でありながらあの短い独特の文章(例:「嘘は決してバレないように、喧嘩は絶対負けないように」)を書くのか、は秘密であったが最近やっと理由が分かった。西村はパソコンを使わない(使えないかもしれない)、携帯で入力するからあの文章しか打てないのである。西村は『戦争と平和』のような長編はとても書けないのである。

その意味で五七五の枠組みで詩を書く俳人が自ずと俳句趣味に浸ってしまうのと似ている。形式は内容を作る、恐るべき型の力である。

西村を引き継いで、次回からしばらく、御中虫の虚構と真実の間を探求してみたいと思う。実は正直なところ、私も御中虫の赤い新撰「このあたしをさしおいた100句」に歯が立たないので、高校の古文の授業のように、生き生きとした御中虫の文章を骨抜きにして、死体を解剖するように文法解釈・語義確認を施し、世の常の批評としてさらに批評してみたいと思うのである(我ながら何を言っているのかよくわからないが)。西村の軽妙な文章は引き継げないが、こうした手術を施せば、伝統派の8割くらいの人が多分わかって反応をしてくれるのではないかと思っている。私はメジャーを相手にしているのだ。

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