赤い新撰「このあたしをさしおいた100句」鑑賞第2回「~恋愛感情なんてアハハンむかつくぜ~」/筑紫磐井

①【御中虫原文】

立ち直りはやし絵日傘ぱつと差す 津川絵理子

嫉妬も込めて言わせていただくが、こういう自立した女、すぐモテなくなるんだぞーーーーー!むしろ虫分析によれば、ほにゃららとしていて振られても振られても立ち直れずにうじうじ泣いてゐるあたしのような女こそが、モテ女なのだ!本当です!絵日傘持ってる、でも差せない、自分の女性性をそんなふうに「ぱつと」差せないよ!そして勢い余って丸坊主にしてしまいその後しまったとか思ってウィッグをかぶる、そんな支離滅裂な女こそがモテ女なのだ!本当です!

だからね、絵理子くん。同じ女性としてこそっとアドバイスするが、こういうステキ句は、あまり人目にさらさないほうがよい。とくにフリーのときは。パートナーがきちんとゐたら、まあ、晒してもいいがね、それでもそのパートナー忠志くんが(そうか…こいつ立ち直ってすぐ絵日傘差せちゃうんだな…ならば)とか思って浮気に走る可能性も否めないので、やはりこういう佳句はそっとしまっておきませうね。と言いながら、才能を握りつぶしてゆく御中虫であった。

【翻訳】

「こういう自立した女」と「振られても振られても立ち直れずにうじうじ泣いてゐる女」とに明確に女性を二分している。俳句の面白さとしては後者の方が圧倒的に深みがあり面白い。

【批評の批評】

女性の二分法としては分かりやすいが、いささか常識的なように思う。この作者の関心は、御中虫には悪いがむしろ絵日傘にある。絵日傘に似合う女が持ってこられただけであり、作者の人生観はこの句に寄って何の保証もされていない。邪推すればこの作者は、御中虫の言う「振られても振られても立ち直れずにうじうじ泣いてゐる女」のような気がする。

②【御中虫原文】

純愛や浅蜊に砂を吐かせてゐる 山下つばさ

おまへは忘れてゐるだらう、浅蜊がアレ臭いといふことを。しかも純愛とかぬかしながらなぜ貝類を比喩に持ってきてしまったのだ、ええ?貝はだめだ、貝はだめだぞ、なぜならば××××の比喩としても貝は使われるからだ、そんなものを純愛と結び付けてどうするというのだ、一気に句格が下がったではないか!おまへも週刊誌グラビア袋とじキャッチコピー行きを望んでゐるのか?

浅蜊に砂を吐かせたのはたぶん真実なのであろう、でなければこのような句はできはしないものだ、だが写生がいいとばかりは限らぬぞよ?って今タイピングしたら写生が××になってしまつた…おあとがよろしいようで。

【翻訳】

貝類にセックスを象徴させることは川柳以来の常套となっている。「浅蜊に砂を吐かせて」の写実的な表現とはうまく調和しないようだ。

【批評の批評】

無造作に性器を扱っているような「浅蜊に砂を吐かせて」の写実が、抽象的な純愛を逆の意味で際立たせている。浅利と比べて純愛には、セックスの匂いも、ウエットな情緒も何もない、愛という言葉を使いながら愛を拒絶しているのが純愛だろう。金属にも似た、非情で残酷な行為規範だけがそこには存在している。

そもそも純愛という概念が日本に入ってきたのは、明治に、肉体を抑圧する邪教(キリスト教)とともに輸入されたもの。それまでは、豊かな色恋が日本にはあふれていたのに。それを切り捨てた非人間的な共同幻想「純愛」に山下も御中虫も踊らされている。

(参考)
第2回「~恋愛感情なんてアハハンむかつくぜ~」

海鼠噛むそちらも青い空ですか       岡野泰輔
くらげくらげ 触れ合って温かい。痛い。  福田若之 
春愁ひ手入れて海とつながりぬ       小林千史
愛すとは剪定の迷える一枝          同上
大きさの違ふ跣足の並びけり        小野あらた
立ち直りはやし絵日傘ぱつと差す      津川絵理子
純愛や浅蜊に砂を吐かせてゐる       山下つばさ
とんかつを女におごる落葉かな       林 雅樹
春風やグリコマークいつもひとり       同上
のび太君しやうがないなあ秋の暮       同上

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