鷓鴣は逝き家の中まで石河原
シュールレアリストによる自働記述のような句である。四次元空間に入り込む気分になる。「逝」という字意に文学的匂いのする鶏・「鷓鴣」への愛着があったことを伺わせ、鷓鴣への追悼、そしてその悲しみの彼岸の風景が家の中まで入りこんでいるように読める。これを第一の読みとしてみる。
さて、掲句は句集『鷓鴣』のタイトルになっているだけでなく、中扉に三鬼、白泉、敏雄の鷓鴣の句を錚々と鎮座させている。戦国三武将の風格である。
鷓鴣を締むおそるる眼かたく閉づ 西東三鬼
新興俳句の旗手として名高い三鬼。ルナアルの『にんじん』の中で岸田國士によりヤマウズラ族の雛が「鷓鴣」と訳されている。三鬼補遺にある「『にんじん』を詠む」と前書き風タイトルがついた昭和9年の作品の一句である。二羽の鶏が殺される場面に恐ろしさのあまり眼を閉じるのは三鬼である。その後の三鬼が、新興俳句弾圧に従うままでいるしかなかったようにも読める。
塵の室暮れて再び鷓鴣を想ふ 渡邊白泉
白泉からは、漢詩の叙情が伺え、「想ふ」に孤独感が漂う。白居易『山鷓鴣』の心情に近い。これも発表後の事になるが、新興俳句弾圧後、俳壇から距離を置いていた白泉のボヘミアン的身の上を重ねあわせると、群れから外れたその身が毎朝毎晩啼きつづけていた鷓鴣をたびたび思い出しているように読める。「塵の室」が、穢れた世ながら貧しく高貴に映る。痛々しい淋しさを伴う句である。
そして三句目に敏雄の鷓鴣の句。先師とともに掲げた句が意味することが第二の読みである。
「鷓鴣」を「俳句」と置き換えてみる。敏雄が想う、三鬼、白泉、敏雄のそれぞれの立ち位置が見えてくるようだ。ひとつひとつの石は敏雄が目覚めた新興俳句という新しさを求めた俳句への鎮魂。外から内に繋がり境の区別が無くなっている賽(さい)の河原の風景である。その石々を家の中で積み上げている敏雄の背中を想うのである。弔いと創造を繰り返す俳句への思いと読めてくる。そして、どこか途方に暮れている印象がある句である。
『眞神』から『鷓鴣』の刊行まで約五年のインターバルがあるが、制作年に於いてこの二句集は同時期である。両作品とも敏雄俳句史に於ける新興俳句からの起死回生といえるだろう。『鷓鴣』での彼岸の捉え方が微妙に『眞神』と異なることに注目しながら更に読み進めて行きたい。