【深谷義紀】②
深谷:戦後俳句史を読む (21 – 1)で述べたことの繰返しになるが、馬酔木「高原派」の純粋自然賛歌とは作風は大いに異なる。もちろん自分が暮らす佐久の山々や風土に対する、国誉め的な作品もあるのは、重い作風の作品が多い中にあって、ふと心が和ませられる。
- 7.職業・仕事と遷子について述べよ。
深谷:遷子が地域医療の最前線に立って患者やその家族と接してきたことを抜きに、遷子俳句は語れないだろう。医師としての目を通じて詠まれた作品は、何よりも生と死のせめぎあいの切迫感を読む者に伝えてくれる。
他方、僻地医療に身を投じた自身の立場については、様々な思いがあった筈であり、作品でも垣間見ることができる。東京の大学などに籍を置き、最先端医療の研究に従事したかったという思いは後年まで抱え続けていたと思う。
- 8.病気・死と遷子について述べよ。
深谷:患者の病気や死を対象とした作品は、医師俳句として結実したと言える(上記7.参照)。
一方、自身の病気については、晩年の闘病俳句となった。かつて福永耕二が記したとおり、馬酔木会員たちは胸が詰まるような思いで毎号の投句を読んだというが、今もその迫真感は色褪せていない。そして、その最後に詠まれた「冬麗の微塵となりて去らんとす」は文字通りの絶唱であり、まさに古武士の最期を見るような感すらする。あまりにも見事な人生の幕の引き方であり、最後までその美学(生き様)を貫徹したと言えよう。
- 9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について。
深谷:どちらかと言えば、自己に対する俳壇での評価など気にも止めず、俳壇とは距離を置いていたと思う。晩年の角川源義とのやり取りは、その証左だろう。
逆に、俳壇への影響もあまり大きなものとは言えず、今日まで余り鑑みられることがなかったのではないか。天爲200号記念特別号で筆者が遷子を採り上げることになったときも、「これまであまり顧みられることがなかったが、忘れがたい(あるいは忘れるべきではない)作家12人」の一人としてであった。
- 10.あなた自身は遷子から何を学んだか?
深谷:遷子研究を始めるにあたって、「自分の俳句の作り方が変わった」と述べたことがある。今となっては些か気負った発言だったと思うが、言葉遊びではなく、自分の想いを作品にしたいという気持ちが強くなったのは事実である。それが、どんな作品となるかは、これからの重い課題である。