戦後俳句を読む (5 – 1) ―「風土」を読む― 上田五千石の句 / しなだしん

上田五千石、本名・明男は、昭和8年10月24日、父・傳八、母・けさの三男として東京に生れる。

生家の代々木上原では満ち足りた幼年期を過ごすが、戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失う。

五千石の作品には、この戦時の身の上から“流寓(りゅうぐう)”を使ったものが散見される。流寓とは放浪して異郷に住むこと。句集『田園』では〈流寓のながきに過ぎる鰯雲〉がそれである。

そんな流寓の中でも明男は、文学に、剣道に、遊びにと少年期を謳歌する。

昭和22年、明男14歳とのとき、静岡県立富士中学校(現、富士高校)2年に転入し、校内文芸誌「若鮎」の制作に加わり、その「若鮎」に自ら次の句を発表する。

青嵐渡るや加島五千石      明男

著書『春の雁』(*1)でこの句に触れ、この句が校内で多少評判になったと記し、「加島五千石」とは、江戸時代、富士川のデルタ地帯に造成された新田・五千石のこと、と述べている。

さらに、この句を引っ提げ、富士宮浅間大社で開かれた水原秋櫻子の句会に出かけたが、句会はスコンクであったこと、そして秋櫻子がこの「加島五千石」というものを知らなかったのではないか、などのことを書き連ねている。

もうお分かりの通り、“五千石”という俳号は、この句による。

父・傳八は、「大人の句会に勇を鼓して出たことを賞し」て、この「五千石」の句は「天下の秋櫻子の目をくぐった句、これを縁に俳号を“五千石”にせよ」と言ったのだという。

ちなみに、父・傳八も俳人で、俳号を古笠(こりゅう)といい、明治30~40年代もっとも俳句に熱中したとのこと。同書の別な項には次のように記されている。

内藤鳴雪選『遼東日報』に、

青嵐渡るや国のあるかぎり    古笠
梁山伯八百人の夜長かな     〃

というスケールの大きな句を発表している。

さて、この古笠の一句と、先の明男少年の「五千石」の句を並べてみよう。

青嵐渡るや国のあるかぎり    古笠
青嵐渡るや加島五千石      明男

そう、「青嵐渡るや」が同じなのだ。そして句の景の大きいところも似ている。

遡れば、上田家では折に触れて句会が開かれ、明男も幼年の頃から指を折って作句した、と『春の雁』にも記されている。この一致を見ると、子は親を見て育つ、との思いをあらたにする。

なお、五千石の風土性といえば、〈虎落笛風の又三郎やーい〉を含め、賢治の盛岡を挙げるのもひとつの考えであろう。しかし私は、少年期を実際に過ごした山梨がやはり五千石の風土にふさわしく、五千石としての正式な発表句とは云えないが、俳号の由来となったこの「五千石」の句こそが、五千石の風土の根底と云ってよいではないか思うのである。


*1 『春の雁―五千石青春譜』1993年10月24日邑書林刊 (10月24日は五千石の誕生日)

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