にんげんだもの/さらば言葉よ(2篇)   橘上

228自由詩

にんげんだもの   橘上

人間だもの。人間なんだよ。俺は。人間さ。人間なのよ。俺は。人間。もう人間。人間なんだからさ、言わなく
てもいいんだよね、人間って。じゃ、仮に俺が人間って言わなかったらどうなる? 生まれてから一度も人間っ
て言わないとしたら? 人間さ。言うか言わないかじゃないもんね、人間って。そしたらね、もう人殺すね。人
殺して、男も女も犬も猫も犯しまくるね。であらゆる金品と金にもならないものすらも奪い尽くして、純粋な人
でなしになるわ。そうなったら? 人間か。人でなしって言われてる時点で人だもんね。セメントに人でなしっ
て言わないもんね。もう完全に猿になる。からだ毛むくじゃらにして、隣の猿と毛づくろい。するとどうなる?
人間さ。人間だもの。人間さ。いや、もうシロナガスクジラになっちゃおうかな。DNAのレベルから変えてシ
ロナガスクジラになるわ。するとどうなる? 人間。人間かー。やっぱ人間かー。うすうす勘付いてはいたんだ
けどね。人間。人間だもの。だよねー。だよなー。もうアレよ、人間じゃなければなんでもいいや。人間じゃな
いヤツ、とにかく人間じゃないヤツになって、人間じゃなく生きるね。するとどうなる? 人間さ。人間だもの。
人間さ。人間って、人間かどうかとかじゃないからね。人間じゃなくても人間よ。人間だもの。じゃあ死ぬ。も
う死ぬことにするわ。死ぬ。犬の一生をミジンコとして死ぬ。そうすると、どうなる。人間。やっぱ人間か。生
きるとか死ぬとかじゃないもんね、人間って。人間だもの。じゃあもう、俺じゃないやつが、俺とは全く無関係
にミジンコとして死んだら? 人間か。人間だもの。じゃぁもう生まれない。生まれないし、存在してない。す
るとどうなる? 人間か。人間だもの。犬として生きようがミジンコとして死のうが存在してようが存在しなか
ろうが、人間。人間だもの。人間。もう話は俺の範疇じゃねぇな。人間。人間全体の話だよ。人間だもの。で、、
人間全体を一人残らず滅ぼすわ。するとどうなる? 人間さ。人間だもの。滅びたって人間さ。じゃあ歴史を遡
って、今まで一度も人間が生れて来なかったとしたら? これまでも、これからも、人間なんて存在しないし、
人間なんて言葉もなかったとしたら? 人間さ。人間だもの。人間さ。ま、この場合の人間は、君の言う人間と
は違うものだけどね。というか、俺の言う人間と、君の言う人間が、同じだったことなんて今まで一度でもあっ
たかい?


さらば言葉よ

さらば言葉よ。いつだってこの言葉から始める。手の内を明かす。手のひらで開く。光らしい光が光らしい光の
なかで光る。まるで光のように。光のある。光のない。聞こえるふりをして聞こえないことにほくそ笑む。さら
ば言葉よ。すでにこの言葉から始めていた。言葉のある。言葉のない。聞いたことのない聞いたことのある言葉
だ。ハロー、ハロウ。こんにちはと言わなくたって、ぶつかるたんびにこんにちは。あらゆるこんにちはが降り
そそぐこんにちの、気の長いため息が季節風のマネをする。ウチハソバヤジャナイ。30円で行われる政治が6
0億の人々に与える影響、バーコードリーダーで読み取れる正義、けれど正義はプライスレス。ありきたりの言
葉が当たり前にあらわれる。さらば言葉よ。現実を泡立てる機会を誰一人投げ捨てられない。本棚に頭を突っ込
み、お前の頭と同じ大きさの本よりお前の方が有用であると誰が誰に誓うのか。書くことが書くことを規定する。
書かれたことが書くわたしを規定する。書くことが書くことを推し進める。

あなたがよく知る街にこれから行こうと思います。誰に言うわけでもないけれど、この言葉に突き動かされたわ
けではないけれど、私は行くでしょう、その街に。こう言ってしまったから行くのではありません。黙っていく
こともできるのだけれど、言うのです。行く、と。行くことも言うこともできなかったあなたから、言うことは
できても行けなかったわたしは、行くことで別れをつげるのです。行けなかった私は、行くという言葉を後生大
事に握りしめることで、行く気持ちを保ち続けていましたが、行ってしまえば行くという言葉も必要ありません。
行くという言葉、あなたという言葉、さようなら

雲の色が悪くなる。雲の白が黒くなる。雲の黒が白くなる。約束もなしに黒と白が出会う場所、それが雲。雲を
見る度にもう一つの雲を、白を見る度にもう一つの白を思う。そこに言葉は、ある。雲はもともと一つだった?
悪い冗談を。雲の色が悪くなる。ミツバチの死とこの雲の色が無関係であるという証拠。その証拠をつかんでも
尚、告発の場もなく野放しにされる。戦争があった。戦争がなかった。我々は戦争があった、なかったという言
葉を行き来しているだけで、戦争を何一つ見ていない。この言葉と、戦争があったかどうかは関係ない。

さよならと言っても続いている時間、そのまわりをまわることでしか、生きる時間は与えられなかった。いった
い何人の人がさよならといって終わることができるのでしょうか。さよならと言っても終わらないのに、終わる
ときにはさよならさえも言えやしないのに。

「生き終わったわけでもないのに生きてることを語るなよ」
「死んでしまったら語ることもできないじゃない」
「死んでみなけりゃわからない」
「死して尚語れ」
「生きるとか死ぬとか関係なく、語れ」
「生きなきゃ語れないというのは偏った語りだ」
「生きる奴、死んだやつ双方の語りがそろって初めて語りは成り立つ」
「だから」
「誰も語りを聞いていない」

言葉があふれる。言葉があぶれる。どの言葉も生きてる奴にしか使われない、言葉ヅラしたコトバモドキだ。コ
トバモドキであることが言葉の唯一の本質で、純粋な言葉があったとしたら、誰も言葉を発せないだろう。歪な
我々は言葉の歪に付け込んで、我が物顔で言葉を発する。歪な言葉が歪な我々につけこんで知らん顔で言葉を使
わせる。

本棚の隙間に、何冊の本を入れることができるのか。五年前に買ったスニーカーの、ひもを何回交換できるのか。
それが去年の目標でした。

「死を生きろってこと?」
「死にながら生きるってことかもね」

わたし、にほんご、わかりますか?

僕は日本語がわかります。どうしたって、わかってしまうのです。

「言葉を生きるってこと?」
「死んだ言葉で死ぬなってこと」

おはよう、さよなら

さよなら、おはよう

庭にダンゴムシが死んでいます。関係ないことですが、ここに書きます。
だって空気や水や電気のことだって、本当は誰にも関係ないことでしょう?

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