暗譜の谷    萩原健次郎

荻原詩

暗譜の谷    萩原健次郎

 どこまでも急登である坂道を登りながら、私は、足許を気にしていた。
さきほど降った激しい雨が道を洗い、苔むした石段を滑りやすくしてい
た。なにかの小さな昆虫の幼生期に、まるまると太った芋虫が、爪先で
ぐしゃっと踏みつぶされて、それでも生きている虫の腸からは、生きて
いることの臭いが放たれている。死臭ではなく生臭である、その臭いの
温かさが、まばゆい苔の、いちめんの緑色に溶けている。

 懐に隠し持っているのは、あるピアニストの指の動き。あるいは、彼
の記憶の渦の中で煮えている形象のない、音譜のような曖昧な記号。
彼は、彼の生きている時代の二百年前に書かれた音の譜を頭の中で反
芻している。

 整理できない臭いがする。

 この坂は、何百年も前からずっと急登であったのだろう。
双ヶ丘、愛宕、西山の峰の連なりが見える。そこに棲む、鳥たちがいっ
せいに鳴き出して、焼けた陽が落ちていく。地よりも低く。

 玉が戻ってくるというのは、妄信にすぎない。草のはざまで、玉はい
つもざわついている。鳥たちの、声がこの真昼に消えていると錯覚され
るように。緑青の唸り声というのも。
 人の玉なのか、音の玉なのか、磨いても濁りは取れず、生きていた時
の些事の埃が混ざってハレーションを起している。鍵盤を打つ時の手捌
きは、玉を端から端まで潰していく。不乱じみてはいるが狂者の振りを
見せてはいけない。玉の喩えではなく、

  
 私の眼の中に、紗のかかったなにかのノイズが光景のはざまに挟まっ
て緑葉が光の斑になり、穴のように、つまりは破れている。ノイズが棲
息していることが、草の玉の息かと思わせるが、私も、ピアニストも、
古典の作曲家も、それは亡霊として、わあわあと騒いでいるだけなのだ
から安かれと呟く。

 狸の谷、スヴャーストラフの谷、パガニーニの谷。
 谷の水から発してくる、整理できない臭いが見える。

                  <連作のうち>

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