劉向東詩三篇    竹内 新編訳

20211009

劉向東詩三篇    竹内 新編訳
           

青草

小僧!おまえは本当にやりたい放題だよ
祖先の墓で風に吹かれて立ち小便だよ
するならするがいい、この野郎!
おまえの湧き水をその青草にふりかけるがいい

祖先は黄河の岸辺からやってきた
高麗紙のズボンをはいて飢饉から逃れてきた
彼らは最後に泥となった
我らは跪いて、青草に向き合うのだ

天にある日月は、万古永遠の時計
一分一分一秒一秒日数をすり減らしてゆくが
永久に摩滅しないのがこの草だ
一面の陽の光と月の光をきれいに掃いているのだ

牛や羊は草が好きだ。それはミルクなのだ
鳥は草を気に入っている。そこは巣なのだ
働き者たちと連れ立って家に帰る
それは竈の煙であり、炎だ

青草は青山と共存している
野焼きでは焼き尽くせず落雷で焼けても
種は燃え残りのなかに暖を取り
根は石のすき間を下方へ探りを入れる

誰も青草を断ち切ることはできない
永遠の鎌は青草の手にある
私の詩歌も終には絶版となる
絶えず再版されているのはこの青草なのだ
                 2021年春改訂

ちっぽけな村

掌ほどの大きさの我が村には
唯一無二の指紋が付いている

人の往き来する路上では
足跡が足跡を踏んでいる

誰が去ることと留まることを決めているのか
誰がやって来る人で誰が古くからの人なのか

古木にはカササギが二羽そろって巣をかけ
古井戸の周りでは花嫁さんが一人水を汲む

古屋で居眠りをする年寄りは
想定外の孫によき幼名を選ぶ

男の子なら山と呼び根と呼び大黒柱と呼ぶ
女の子なら小枝ちゃんと呼び花ちゃんと呼び葉っぱちゃんと呼ぶ

一つ灯りが点ればその灯りで村中の灯りが点る
一羽鶏が鳴けば辺り全て鶏鳴に呼び覚まされる

葱のみじん切りの和え物のいい香りがし
風が吹いてくれば戸が開く

夜が深まり人が静まると生命は抽象へと沈み
星や月は遠くて田が届かない

細部に耳を傾けても思いを込めて述べても
遠くて手が届かなければみんな夢となる
                  2015年秋

母の灯し火

その灯し火は
深く長く吹く風のなかで
どうやって仄かな光を出したのだろう、豆みたいな光を

私のほかに誰がそれを遠く望むことができるだろう
それが母の掌に正座しているのが見える
オンドルで、小さな顔が幾つか、眼差しと灯し火を自由にさせて
飽きもせずしげしげと見入っている

ああ、満ち足りた夜
全世界にただ一つその菜種油のランプだけが残されていたから
それを吹き消すのも楽しみとなっていた
でもそれは分かち合うものでなければならなかった

いい子なんだから、取り合っちゃだめだよ
  消してごらん、母さんがまた点けてやるよ
  点ける、吹き消す
  吹き消す、点ける

こういう詩行を書くとき
私には母のカサカサの手が見える
手はランプの炎を用心深く保護している
まるで誰かがまた吹き消してしまうのを恐れるかのように
彼女は彼女のために詩を書く息子のために明るく照らそうとしたのだ

おお、母の灯し火よ
豆みたいに
涙で曇る目のなかをどこまでも伸びてきて
今このとき茫々たる広野はすっかり豆だよ
黄金色に輝いているよ

黄金色に輝いているのは
湧き返るミルクだよ
この一生の使い終わることのない日々の糧だよ
                     1993年秋

劉向東(リウ シアントン/Liu Xiangdong)
 男。1961年、河北省興隆生まれ。国家一級作家(詩人)。河北省作家協会副主席。中国詩歌学会副会長。『詩選刊』編集長。詩集『母の灯し火』、英文版『劉向東短詩集』、
セルビア文版『劉向東の詩』等、多数の著作がある。受賞多数。「郷土詩人」と称され、「遠くから原郷を見守る詩人」とも言われる。
ディープな中国(勿論、江南とは異なる)が描かれていると言えるかも知れません。地図を開くと、北京、唐山、承徳を結ぶ三角形の真ん中あたりの「興隆」の山のなかです。
右(東)に目を転ずれば「山海関」が見えるでしょう。「燕山山脈」の名を御存知の方もいるでしょう。
「青草」、「ちっぽけな村」、「母の灯し火」の三篇を紹介しました。『劉向東詩選』。

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