インターネットによる「24節気アンケート(第2次集計)」は、7月28日『第4回こもろ・日盛俳句祭』シンポジウムの2週間前から俳句系ブログ「詩客」「週刊俳句」「スピカ」等で募集してインターネットで回答を求めたもので8月5日までで108名の回答を得た。このうち、「二十四節気についてのお考えを自由にお書き下さい」の設問に対し69件の書き入れがあった。以下では、4回に分けてその全意見を紹介する。
①気象協会が新しい季節の言葉を作っても、俳句では二十四節気を使えばいいのではないだろうか。歳時記に二十四節気のそれぞれに、何月何日頃と記載してあれば、新しい暦に載らなくても使えると思うが。もともと歳時記は京都を元にしてあるので、地方によってずれがある。二十四節気で詠んだ過去の多くの作品を今の状態で残すことも考えたい。俳句は読者イコール作者であると言えそうなので、歳時記がしっかりしていれば、違和感がなく二十四節気は残せるのではないだろうか。
②季語自体、いまや極めて制度的な言語に成り下がっている。表現者は少なくとも制度的言語を脱する試みを行なわなければ、伝統の更新は不可能である。
二十四節気と季語は実は似て非なるものだ。
人間の生活の知恵として二十四節気は切実なものである。季語は元々遊芸の約束ごとに過ぎない。
③新しいものと、古いものが両方あったらいいと思います。
④現代の気候と二十四節気が合わなくなっているということも確かにありますが、実際には人の生活が季節と合わなくなっているのではと思います。高気密住宅での冷暖房、外来植物・外来生物の存在、生活習慣の変化などの影響を注意深く除いていけば、まだまだ二十四節気はゆるがないと思います。
⑤「新しい季節の言葉」というけれど、どんどん変わる気象条件のなか、「現代」にあわせて言葉を創り出す意味があるのか。今さら農村生活に密着した季語が定着するとは思えず、かといって移ろいやすい都会生活の語彙を「季節の言葉」と制定する意味があるとも思えない。そもそも「二十四節気」の枠組みが日本にあわないのであって、あわないものをあわないなりに言葉の上で楽しむのが「季語」文化であるのに、あわせようと今さら制定する行為に、多大な無理を感じる。
⑥長い間使われてきた現在の二十四節気は、それぞれにとても好きな言葉で、日本語の美しさを感じます。大切にしていきたいと思います。
⑦俳人以外は、必要としていない言葉という気もします。
⑧確かにあまり使われていないもの、難しいものもあるが、無理に新しい言葉を作っても浸透しないと思う。
⑨季節の言葉は、俳句の専売特許ではない。言葉を選ぶのは俳人としても、新たに作るとは馬鹿げた考えだ。
⑩現行の二十四節気は確かに実際の季節と一致していないことが多いかと思います。しかしその少しのずれも季節を先取り或い後で思いを致す一つの指標となるのではないでしょうか。新たな二十四節気ができるとすれば、どのような言葉が生まれるのか楽しみなところです。
⑪永く親しんできたものなので今後も大事にしていきたい。
⑫夏至、冬至のように気象上ぴったりするものもあれば、少し頭を傾げたくなるものもある。しかし二十四節気についてはあまり抵抗を感じない。むしろ、例えば「七夕」「お盆」などについて各俳句協会のはっきりとしたまとまった意見を示すべきだと思う。先頭に立ってまとめる俳人はいないのか?人集め、金集めに躍起になり、肝心の俳句の基本を忘れているのではないか。残念である。
⑬二十四節気は、最近、頑張って覚えてみました。
天気予報の当たり外れだけに、一喜一憂する日々が、虚しくなったからです。
空を見て、外気に触れること。その上で、天気図に目を通したり、二十四節気や季語に思いを致し、自分で判断するようになったら、精神的にも物理的にも、すっきりしました。
私は俳句に、季題や季語が無くても全く構わない立場ですが、「二十四節気」の考え方は、かなり合理的に出来ているのではないかと思います。最近、ゼミ形式で学生と話し合う機会があったのですが、「二十四節気」、わりあいウケました。手帳を見ながら、一年の行動を振り返ると、(「立夏」=GW、「大暑」=夏休み、「冬至」=柚子湯=クリスマスツリーはもともと、太陽信仰に基づく冬至の習わしをキリスト教が採用したもの等々)、なるほどと思うようです。
若い世代の方が、素直に受け入れられるかもしれません。
⑭個人的には好きだが俳句に必須の概念として(歳時記など)初心者に教え込むのはどうかと思う。
⑮新しい「季語」を提唱しても、本意の歴史が確立していないので季語として役に立たない(季節性を表せても言葉としての力がない)。二十四節季はそのままで良い。伝統のある季語はほぼ全て中国発なので、それらも変えてしまうのか(ばからしい)。日本でも北と南では季節感が違い、季節感のずれは当たり前。しかも、二十四節気は太陽暦に基づくものであって旧暦でも新暦でも同じ日(日付の数字は違うが)である。そのままにしておいてほしい。立春や冬至が別の名前になるなんて考えたくもない。現代人の国語力のなさ(啓蟄の意味がわからない)を「季節感のずれ」として問題をすり替えているにすぎない。
⑯昭和9年初版の高濱虚子編『新歳時記』には二十四節気のうち季題(季語)として採用されているのは、立春、立夏、立秋、立冬、啓蟄、夏至、冬至、小寒、大寒の9つにすぎません。その理由として「序」のなかで虚子は「季はあるには相違ないが俳句の季題としては不適当なものである」と退けています。よって「ホトトギス」および伝統俳句協会系の俳人たちの多くは、二十四節気七十二候を季題として諷詠しないようです。一方、現代俳句協会編の歳時記および俳人協会と密接な関係にある角川書店刊(現角川学芸出版刊)の合本俳句歳時記には全項目に例句が収録されております。現在の俳句作者たちが作句の拠り所としている歳時記に掲載されているか否かで、このような違いが生まれることこそを探究すべきであろうかと思います。よって今回の日本気象協会の判断が俳人および歳時記編纂者に影響を与えうるか否か、を問うべきではないでしょうか。
⑰必要ないです
⑱問5、6は気象協会の提案を前提にして答えたが、もとより新しい季節の言葉は実作を通して産まれるべし。当面、二十四節気が消滅するはずもなく、メディアと、俳句実作者の所謂市場原理に任せればよい。なお気象=季語(二十四節気)に感動するのではなく、気象を言語化した、その歴史の厚みに感応し、現実との齟齬にも感応するところに、現代俳句の妙味もあるのではないか。二十四節気は別として季語はどんどん増やすべし、きっと虚子ならそうしたな。
⑲太陽の運行に基く二十四節気と月の満ち欠けとを組み合わせた太陽太陰暦(所謂旧暦)はとても優れたもので長年我が国の季節と付き合ってきた古人の生活によく合っていた。農業に携わる人が減った今でも十分使用に堪えるものと思っている。グレゴリオ暦は世界標準という意味では外せないけれども太陽太陰暦を見直してもいいのでは?
⑳二十四節気はそのまま残して、日本気象協会が基準とする季節の気象用語を使用すればよいと思います。