私の好きな詩人 第78回 - 丸山薫 – 三井喬子

 全集の年譜によれば、1899年、大分市生まれ。父親は官僚(警察)で、母親は後妻だった。異母兄2人がいて、戸籍上は4男である。父親の転勤に従い、長崎、東京、京城、松江、東京、豊橋、京都、東京と転々と居を移し、疎開先の岩根沢から豊橋へと移り住んだ。時に49才である。1974年75才で亡くなるまでこの地に住んだ。このうち、わたしが謦咳に接し得たのは、60年代後半の5~6年のあいだのことである。

 大柄で象のような目をした大詩人。その柔和な外見とは必ずしも一致しない繊細な人であったことは、多くの友人知人が語ってくれる。エッセイ類を読むと良く分かるように、結構歯に衣着せぬ毒舌家でもあったようだ。わたしも何度か叱られた。恥ずかしいからここには書かないが、田舎者ぶりを見とがめられたのだった。

 海が好きで、航海にあこがれていた。学生は、話の接ぎ穂に困ると、帆船に話を振った。

そして、質問もないのに、ぞろぞろと金魚のフンをやったものだった。

 思い出話は尽きないが、話題を元に戻そう。

 こうも一か所に留まれない生育期を過ごしたのであれば、丸山には当然故郷などというものはなかった。転居に次ぐ転居。土地の風俗や習慣に育まれるという状況は、あらかじめ奪われていた、と言って良い。現在以上に、言葉も通じず風習にも馴染めない子供の暮らしは、さぞ孤独であったろう。

 『鶴の葬式』に、とても象徴的な詩がある。

夕暮 
 
洋燈(ランプ)を點(つ)けると 
洋燈はすぐに叫んだ 
――むかふの闇が見えない 
         見えない 
 
むかふの闇に置くと 
なほ大聲で喚(わめ)いた 
――いま居た所が暗くなった 
       暗くなった 
 
蝙蝠(かうもり)が笑つた

 蝙蝠ははざまの世界に生息し、状況次第で都合の良い方に味方する、ということになっている。蝙蝠が昼日中大手を振って飛行しないのは、視力が極端に弱いという身体的ハンディのせいで、性格が悪いからと言うわけではない。正直だが我侭で利己的な洋燈の主張を、蝙蝠はうすく笑う(この笑いは哄笑では無論ない)のだった。

 丸山薫の都会的な「知」の在りようが窺われて、大好きな一篇である。

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