文体の変化【テーマ:自由な調べ】/筑紫磐井

前回見てきた河東碧梧桐や楠本憲吉の作品、一見、こうした俳句臭のない文体は自由律俳句に由来するように見えるが、自由律俳句が必ずしもすべてここでいう俳句臭のない、散文的文体であるわけではない。例えば碧梧桐『八年間』(大正12年刊)に前後する自由律俳句を見ても、

いち早く枯るる草なれば実を結ぶ   野村朱鱗洞(『礼讃』大正8年刊)
かがやきのきはみしら波をうち返し
わだのはらよりひとも鯛つりわれも鯛つり
行くべかりしに母のため彼岸まゐるなり

すばらしい乳房だ蚊が居る   尾崎放哉(『大空』大正15年刊)
足のうら洗へば白くなる
壁の新聞の女はいつも泣いて居る
爪切った指が十本ある
入れものが無い両手で受ける
咳をしても一人

などのようであり、言葉と言葉の断絶を強く感じさせる作品は多くない。のみならず隣り合った文節が実に日本的な情緒で繋がり、自由律であってもこれは俳句なのだ、という確信を持たせてしまうのである。自由律のうち、比較的、朱鱗洞は長律、放哉は短律と言えようが、いずれにしろ自由律は自由律なりの俳句的文体を如実に示している。ややはり特別な努力によって、碧梧桐や憲吉の文体は生まれているのである。おそらくそれは写生、というよりは写実の方法論として誕生しているのではないかと思われる。

実は、私は俳句と同時に自由律短歌を詠んでいたので、碧梧桐や憲吉の作品を見ると、自由律俳句以上に、むしろ昭和初期の(時期的には山頭火の時代に近いと言えよう)自由律短歌を連想する。自由律短歌は、いろいろな歴史があるが、運動として盛んになったのは昭和4年、飯田夕暮が口語自由律短歌を提唱、「詩歌」によって沢山の自由律歌人が誕生した。

自然がずんずん体の中を通過する---山、山、山   飯田夕暮
五月の、青樫のわか葉が、ひときはこの村を明るくする、朝風、
あざやかな青天の虹鱒、十和田ははれやかにわれらによびかける
雪の上のうす青い翳。窓をあけて、しづかにまた窓をしめる
何しに僕は生きてるのかと或夜更に一本のマッチと会話する   立原道造
貝殻みたいな朝だな、明るい窓際で僕は林檎をかぢってゐる
平野から光った粉が飛び立つのだ、きらきらと空が揺れている   小関茂
空は静かにたたまり、旗に吸われ、そして又ゆるやかにあらわれてくる
枯草、日輪を忍ばせてくろい、あさの風来り--のぶとい牛のこゑ   香川進

これらは明らかに、野村朱鱗洞、尾崎放哉とは異なる文体であるし、その後の種田山頭火とは異なっているが、河東碧梧桐や楠本憲吉の一部の文体には似通っている。分かち書きの代わりに、句点、読点、傍線が使われているが、文節を切断するという効果は同様である。

実は自由律作家の一人前田透の初期作品を掲げてみたい(昭和13年の作品)。前回紹介した碧梧桐の山岳俳句と好一対をなすと思われるからである。

登るより、ひとりくだるか--轟と霧の底に鳴る谷へ
岩の陰影(かげ)、荒々しいルンゼの上の、空--覆ひかぶさつて蒼い
雪橋(スノー・ブリッヂ)、崩れおちる響きに、あを遠く応へる、空
草尾根ゆるやかに続く巻機(まきはた)よ。雲にかこまれ桜草さいてる
匐松の尾根踏んで行くと、雨投げて来る。あとから雲が来る
単独登攀者 俺は、霧におういと呼ぶ--雪降り出す
いちめん、クラストした大斜面--午後の空、高く雲をはこび
雪と氷の物語(メルヒェン)の世界を行き、つひに人間であることが淋しい
山、大きく黙って暮れて行くーー旋廻滑降(ボーゲン)してくだり出す

自由律という形式が、一回性の文学世界を創り出している。やや単調ではあるが、類想性のない言語空間を作り出している。これは短歌だからという理由ではなくて、自由律の名の下に散文文体を取り込んだことによる効果ではないか。碧梧桐の山岳俳句を考えるに当たって是非参考としてみたい作品である。

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