私の好きな詩人 第82回 – 永井祐 - 鳥居万由実

実は、永井さんとはちょっとした顔見知りである。とはいえ大学生の時の話で、ざっと10年近くお会いしていないし、第一濃い付き合いではなかったので、私を永井さんが覚えておられるかは、かなり謎である。大体10年という歳月は人をほとんど別人にするのに足るから、もうお互いにまったく見知らぬ人になっているかもしれない。だが私の方ではおかげで嬉しい思いをしたことがいくたりかあった。偶然めくった本の中に永井さんの歌が引用されていて、書くことを続けている仲間がいることに嬉しくて一人にんまりしたりと。

 だが今回、この場を借りて永井さんについて書こうと思ったのは、もちろん単に顔見知りだったからではない。短歌にはまったく門外漢ながら非常な魅力を感じているからである。大体、歌集のタイトルからして「日本の中で楽しく暮らす」だ。「何ごと!?」と思うほかない。読みすすめれば「何ごと!?」はまだまだ出てくる。

寒い日に雨に当たればなお寒い冷たい石に座ればもっと
外国の映画の中のカップルがよくわからない言葉をしゃべる

「それはそうだろう」と思わず突っ込みたくなってしまう。そう反応させることで成功しているのかもしれない。一見見も蓋もない自明のことを取り上げているように見えるが、これらがなぜか切実なのは、あたりまえのことを「ねえそうでしょう?」と尋ねてくる身振りのためなのかもしれない。子どもが「これ」「それ」と指差してものの名前を、存在を確かめるようなのだ。存在の確認。雨は冷たいし、外国語は外国語だし、わたしたちはここにいる。ねえそうでしょう?「それはそうだろ」と笑いがこぼれるとき、不思議な暖かみと、存在について共通了解が取れたことの安心感がにじんでくる。ミニマムに削ぎ落とされた共感だ。

日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる
わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる
ここにある心どおりに直接に文章書こう「死にたい」とかも

手をさし入れるのは「ぐちゃぐちゃ」の雪だ。清潔な雪ではない。後の二首からも、本当に単純な意味で「たのしく」暮らすのではないことは推測される。だが「かなしく」暮らすこともしない。あまたのぐちゃぐちゃを抑制し、足が沈まぬよう、また宙に飛んでいってしまわぬよう、一歩一歩強靭なバランス感覚で踏み固めて進んでいるようなのだ。このバランス感覚は非常に稀有だと思う。カフカを思い起こしてしまった。カフカは友達に「ぼくらの世界はたんに神の不機嫌、おもしろくない一日、といったものに過ぎないんだ」と話した。「不機嫌な一日」に生まれてしまったやるせなさ、でも「不機嫌な一日」の外には希望があふれている、という希望、神の不機嫌というユーモラスさ。永井作品に淡く漂うなんともいえないアンビバレンツな優しさ、ミニマムな叙情の足どりは、どこかそんな感覚に似たところがある気がする、と勝手に思った。

パチンコ屋の上にある月 とおくとおく とおくとおくとおくとおく海鳴り
まぶしいから電気が見たいチカチカが激しい中で何か言いたい
太陽がつくる自分の影と二人本当に飲むいちご牛乳
公園にあるログハウス風トイレにぼくをつれてきてくれてありがとう
おじさんは西友よりずっと小さくて裏口に自転車をとめている
月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね

 大学の講堂裏でばったり永井さんに出くわして別れてから、もう10年近い。「また会うでしょ」と予定もないのに天気の話でもするように、永井さんはさらっと言っていた。それからリアルで会うことはないし、向こうがこちらを記憶しているかも不明だが、こうして文章を書いている。そして「ぼくはこっちだからじゃあまたね」。

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