私の好きな詩人 第17回 – 辻征夫 – 小川三郎

 『新潮』一九九八年九月号に掲載された小説『黒い塀』で辻征夫の名を初めて知ったため、彼を小説家だと思っていた私が最初に手に取った詩集は『俳諧辻詩集』だった。私は詩も現代詩も読むことなく三十過ぎまで生きてきた人間だったので、一冊の詩集をまともに読むのはそれが初めてのことだった。本屋で二、三篇を立ち読みし、購入した。価格は2330円と、普段私が買う本と比べると高価な本であったが、気にならなかった。

 『俳諧辻詩集』に収録された詩篇は、まず俳句があり、それに呼応するように詩が続いて構成されている。俳句といっても、

葱坊主はじっこの奴あっち向き

 こんなふうである。

 それに詩が続くが、詩と言っても、

(葱って動物だなって
とつぜんいうんですよ
みろよあのはじっこの奴
あいつは生きてるぜって―
そりゃあ葱だって
生きてるわよというと
ちがうあいつはいまむこうをむいたんだ
葱に顔をそむけられちゃあ
おしまいだなって肩をおとすの

葱って
まだ野菜でしょ)

 こんなふうである。

 江戸っ子らしき誰かが、気の置けない知り合いに語りかけているような内容で、その多くはほとんど演劇のセリフのように感じられる。

 中原中也や萩原朔太郎、谷川俊太郎と言った詩人の詩集を、それまでも立ち読みなりなんなりで読んだことがあったかも知れない。でもそのままページを閉じて購入しようなどとは全く思わなかった私が、『俳諧辻詩集』は読んだ直後にするりとレジに持っていき、代金を支払った。私はそのとき、辻征夫の詩を現代詩とは認識しておらず(というか、その時点で私は現代詩というジャンルがあることを知らなかった)、詩とすら認識しなかったかもしれない。単に、(面白い本だ。持って帰って繰り返し読みたい)と感じたから購入した。

 そのようにして読者の手に渡っていく詩集はどれだけあるか。詩を解さない私のような者でも、辻征夫の書いたものにはすぐに魅了された。私はそのとき、まだ詩を書き始めてはいなかったので、詩に特別な思い入れはなく、そんな私に辻征夫の詩は、小説や音楽や映画などと同じ線上に現れた。そんなふうに詩が存在することは、はなはだ難しいようにいまは思えるが、辻征夫の詩は、別段難しくもなくそうであった。その後私は、ほとんど全ての辻征夫の詩を読み、それらは『俳諧辻詩集』よりもずっと「詩」らしいものもあったが、それらを繰り返し繰り返し読み、そのことを言葉で言い表すのは難しいのだが、楽しんだ。

 辻征夫の言葉はやさしい言葉だけれども、読んでいくと、突然、暗く底が見えない井戸を覗き込んだような、そんな不可思議さにさらされる一瞬がやってきて、読み手は胸を抱え上げられたような戦慄を覚える。それは無上の快楽である。私はそれまで、映画や音楽やその他の芸術を見てきて、そのような快楽を与えてくれるもののみを愛してきた。辻征夫の詩にはそれがあり、だから私には、辻征夫の詩が現代詩であろうがなんだろうが、拒否する理由はなかった。

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