廿楽順治の詩集『化車』(思潮社、4月25日)は、最初の部分に集められたいくつかの詩のあたかもフロイトの言う夢の仕事の一つである圧縮で作られたかのような題名自体(「爆母」、「父顕」、「頭盆」、「具伝」……)が既にそのいくつかの要素が複合された奇形的な存在・世界を告げている。「爆母」に現われるのは、「母」であるとも「つま」であるともつかぬような得体の知れぬ肉体だ(「ふっとんでいった母をわたしはつまにした/つまとしては助かった/(中略)/どこに/母のうす皮がはりついているか/つまとしては少し糖分がたりないとおもう」)。「頭盆」という詩は、題名自体が「ズボン」をも意味し得るためか、頭でもあり足でもあり毛のはえた「世界」でもあるような奇形の身体を出現させている。「足がまるだしなのに気づかない/頭上に/のせてきたものが/かわいて/にいさん、こりゃもう元にもどらないよ/(中略) /どんな時代も/皿のようなものがたりなくなって/頭上/がひらたくなるほかない/そういうことに欠乏をかんじるやつが/言いなりになって/なんぼんも/かわいた足をまるだしにするのだ/いい年して/世界に毛がはえているのにはびっくりした」
。
「化車」という詩集のタイトルからもわかるように、このような異質な者たちの複合から成った奇形の体・空間が可能になるのは、この詩集独自の磁場にあっては、各々のものたちが絶えず別のものに「化」そうとしており、変貌の途上にあるからにほかならない。「わたしのやつ」
が「のびだして」
、「教室のぞうきん」
になり、「はてしない廊下」を「ふく」ことによって、「しらないひとの夜」
にまでつながって行く様を書いた「伸仏」という美しい詩は、そのことを告げている。「おもいのほかわたしのやつがのびだして/(それでいい)/あおむけのまま遠くなる/そんなにうすくのびたって/もうだれもすきになったりしてくれない/教室のぞうきんみたいなもんだ/はてしない廊下をふいていくしかない/そこでは空が/しらないひとの夜のほうまで/晴れわたっている」
。同一なるものから他なるものへのこの絶えざる変貌を「化車」という長詩の冒頭部分は次のように書いている。「夢の島にいた//ちがうものになるのだからしょうがない/(中略) /ちがう/ものになったから/おなじかたちのところはあるけない/わかいときは/くるしいからみんなおんなじすがただった」
。
自分のもとから離れて別のものへと向かうこの運動(廿楽はこの詩集でまた、「じぶんとじぶんの差」を言い、「(石が石の不安からぬけでるとき)」
(「劣化鉄道」)と言い、「でんちゅう と/でんちゅう/の差異」
(「やちまた」)と言う)は、自分の言葉から離れて他の言葉たちに向かう詩の動きでもある。「ひとのにほんごはいつまでもおわってくれない/わたし/の現象はおわった」
(「化車」部分)。「わたしの現象」の終わったところで出会うと言ってもいい「いつまでもおわってくれない」「ひとのにほんご」
とは、様々な声、対話(「おれを豚のしっぽ/といった日帝のやつらは確実にぶった斬ってやる/(でも明治のひとは)/斬るまでもなく/だいたいみんな死んでるんですよ」
(「草濛」))、しばしば詩についての一種の注釈(「その背中のまるまりようはどうだ/暗喩としてはまったくもっていぶし銀」
(「草濛」)、「なんだかこのぶんたい、少しくさってきてませんか」
(「やちまた」))、怒鳴り声、品のない言葉使いによる時に恫喝めいた呟き(「まだわからねえのか」、「それにしても/はたらかねえやろうだな」
(「草濛」)、「こわいお父さん/(だろ?)」
(「草濛」)、「(はだしだもんな)」
(「やちまた」))、得体の知れぬ歌(「えんや/とっと/えんや/とっと」
(「やちまた」))等、我々の言語的生活からすれば一番ありふれているものの、それだけに詩の中に入れると異様にすら見える日本語の断片群だ。これらの声を集めたこの詩集自体が結果的に異質なものの奇形的複合体となっている。