私の好きな詩人 第1回 – 草野心平 – 森川雅美

私が草野心平の詩に、助けられたことがあることは、以前に書いた。草野の詩には現在生きている世界を越える、もっと大きな多重の世界があり、そのことが私たちの生きている世界を相対化するのだ。いわば、心地よく自己が卑小であると思えるのだ。

草野の第一詩集『第百階級』もまさに、そのような世界を感じさせる。『第百階級』は一九二八(昭和三)年に刊行された第二詩集、活版刷りとしては初の詩集だ。全編が蛙の詩で、「るるるるるる」とい字だけのつらなりや、「●」だけのなどの詩もあり、意味、聴覚。視覚を見事に融合した、今読んでも斬新な詩集だ。呪文のようななんとも心地よいリズムの言葉や、ひらがなの多用により、全体におおらかな明るいイメージがあるが、その内容は恐ろしい。まさに「死」の強烈なイメージがある。

ぐりまは子供に釣られて叩きつけられて死んだ
取りのこされたるりだは
菫の花をとって
ぐりまの口にさした

(「ぐりまの死」部分)

このような詩が並んでいる。

ここに描かれているのは、突然訪れる理不尽な死以外の何ものでもない。蛙たちは実にあっけなく、当然のごとく死んでいく。もちろん、それは蛙に限ったことではない。私たちも戦争や災害で、実にあっけなく死ぬ。

草野は一九二一(大正十)年に中国に渡っている。この年は「中国共産党」が創立された年で、当時の中国は国共内戦の混乱期といえる。そんな中で、草野は多くの死を経験しただろう。友達やもしかしたら恋人を失ったのかもしれない。

『第百階級』に限らず、草野の詩にはそのような死者の無念が底部にある。しかし、それをけっして声高に語らない故に、詩としてのながい命を保っている。蛙も人もただ死んでいくのではない。

おれはこいつの食道をギリリギリリさがってゆく。
ガルルがやられたときのやうに。
こいつは木にまきついておれを圧しつぶすのだ。
そしたらおれはぐちゃぐちゃになるのだ。
ふんそいつがなんだ。
死んだら死んだで生きてゆくのだ。
おれの死際に君たちの万歳コーラスがきこえるやうに。
ドシドシガンガン歌ってくれ。

(「ヤマカガシの腹のなかから仲間に告げるゲリゲの言葉 」部分)

死ぬ瞬間まで生きている。そして「死んだら死んだで生きてゆくのだ」。ここにある祈りは深い。

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