―テーマ:「花」その他―
- 近木圭之介の句/藤田踏青
- 楠本憲吉の句/筑紫磐井
- 上田五千石の句/しなだしん
- 齋藤玄の句/飯田冬眞
- 青玄系作家の句/岡村知昭
- 堀葦男の句/堺谷真人
- 成田千空の句/深谷義紀
- (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会③
出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)
コメント:堀本吟
近木圭之介の句/藤田踏青
汽船が灯る 菜畑受胎
第5回にも既出の昭和28年の作品(注①)である。「下関港と周辺」と題した一連の作品中にあるので、港に停泊している船に灯がともったのであろう。その灯火の黄色にポッツと点った瞬間に照応する如く、菜の花の受胎を感応したのであろうか。まるでカンバスに浮び上る様に描かれた海峡をはさんだ船と菜畑のような趣のある作品であり、その取合せも絶妙である。更に七・七の快い短律のリズムである事も詩的共鳴として見逃せないものがある。又、この句に先立って昭和27年に下記の詩(注②)が発表されており、それがこの句の基材ともなっているようである。。
<丘にて>
菜の花は靴の中で受胎する
菜の花はズボンの折目で受胎する
菜の花は耳のそばで受胎する
菜の花はデパートの屋上で受胎する
遠く沖を走る船のマストで受胎する如きは
何の不思議もないことだ
菜の花の原種は、西アジアから北ヨーロッパの大麦畑に生えていた雑草で、日本では弥生時代以降から利用されたとみられており、江戸時代になって植物油の採油目的として栽培されたそうである。また菜の花は自然交雑して雑種が生まれ易く、同種だけでなく他種の花粉によっても結実してしまうそうだが、果たして圭之介がそこまで考慮してこの詩を書いたかどうかは疑問である。しかし、菜の花という対象への視点の位置を変える事によって様々な受胎の様相が現れてくる事は確かである。
菜の花は圭之介が特に好んだものらしく、他にも多くの作品がある。
海峡の向こうで菜の花が咲いている 昭和40年作
豪華な菜の花ばたけの角を曲がる 昭和41年作
砂丘へ誰が菜の花をすてたのか 昭和42年作
思想喪失 菜の花が咲いた 昭和54年作
菜の花ばたけ黄に 絶望の人は通らぬ 昭和57年作
かなり散文的な句調のものもあるが、常に菜の花という存在を自己に引きつけては、その実存を確認しているがごときである。そしてその折には菜の花の向光的性格を積極的に意識しつつ。そういえば与謝野蕪村にも菜の花の句が多くあった。
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
菜の花や鯨もよらず海暮ぬ
菜の花や摩耶を下れば日の暮るる
菜の花を墓に手向けん金福寺
これ等の句の菜の花と月、海、夕日、墓との配合は同じ画家としての視線を通じての印象鮮明な構成となっている。尚、摩耶は私が住む近くの六甲山系の摩耶山であり、金福寺は京都左京区にあり、蕪村の墓や蕪村等によって再興された芭蕉庵がある寺である。
また、圭之介には受胎関連の句も多い。
花が受胎する夜のインクと壺 昭和28年作
旅をもどり花の受胎おわり 昭和32年作
受胎とはある種の非日常的な詩の誕生への入口でもあり、その行為の結果としての日常への回帰でもあろうか。
「花」とくれば女性がつきもの。
それだけの夜だった バラを手にもたせ 昭和20年作
真相は言わず白く咲く所存 昭和51年作
女の闇に辛夷ちる覗いてはならぬ 昭和62年作
お互いに何も言わずに別れ、秘めた思いは秘めたまま、そして散る辛夷は女の闇の中で怪しくほの白く浮び上る。年代によってドラマは少しずつ濃厚になってゆくようである。
注① 「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注② 「近木圭之介詩抄」 私家版 昭和60年刊
楠本憲吉の句/筑紫磐井
乳房のごと辛夷盛りあぐ画家羨し
椿落ちて万緑叢中一朱脣
『孤客』45年、46年より。
花といえば普通は桜だが、ここでは花一般を取り上げてみた。第1句は、油絵である。絵の具を盛り上げて描いた辛夷の花に、乳房の立体感を感じたものだ。「羨し」は「ともし」と読む。第2句は、緑の山の中で落ちた椿の上向きの花弁が女性の唇に似ているというものである。乳房より一層エロチックに見える。何を見ても女に見えてしまう困った性癖であるが今回注目したいのはそれではない。この句の背景に中村草田男の句があるからだ。
冬空を今青く塗る画家羨し 『長子』
万緑の中や吾子の歯生え初むる 『火の島』
万緑は、王安石の詩の「万緑叢中紅一点」からとったものであるから、憲吉はその出典に遡って、「紅一点」を「一朱脣」に似ているだろうと示しただけのものである。憲吉の師日野草城は昭和初期に新婚の一夜を描いた「ミヤコホテル」一連で物議を醸し、とりわけ中村草田男と激しい論戦をした経緯がある。そうしたことを忘れたかのごとく、平気で草田男のフレーズを借用しているのである。
こうした部分借用は枚挙の暇がないほどであり、さらにそれは自己模倣にまで陥っているのである。
春は名のみと書き出す手紙ペン涸れ勝ち
春は名のみの風がもたらす一つの訃
ぼうおぼうと喚ぶは汽笛か鰊群来
無惨やなわが句誤植を読む寒夜
埃吹く街黄落の激しきに (『埃吹く街』近藤芳美の代表歌集名)
私は船お前はカモメ海玄冬
見よ東海の岬にたてばひそかに春
夕立のほしいままなり言うままなり
我耐えるゆえに我あり梅びっしり
我愛しむ故に我在り裾冷ゆ春
君はいまどのあたりの星友の忌更け
(仙台侯に愛された遊女高尾の詠んだ句に「君はいま駒形あたりほととぎす」がある)
詩であろうが、俗謡であろうがそんなことに構わず、耳に快いフレーズを使う。誠に危険な作句法だが、実はこれが俳句の本質を突いているから厄介である。
上田五千石の句/しなだしん
まぼろしの花湧く花のさかりかな 五千石
第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。
今回の「花」というテーマではたと気づいた。五千石に「花の句」が少ないのだ。五千石の代表句を多く収める第一句集『田園』には、「花」「桜」の作品は一句も残っていない。第二句集『森林』になって、〈ぽつとりと金星一顆初ざくら〉〈側溝を疾走の水山櫻〉の二句が登場し、第三句集『風景』には、〈土くれに鍬の峰打ち山ざくら〉〈花さびし真言秘密寺の奥〉〈うち泣かむばかりに花のしだれけり〉の三句がある。
第四句集『琥珀』には掲出句を含め、六句が収められ、徐々に「花」の句が多くなっているが、『田園』のゼロ、というのはやはり意外というほかない。
ちなみに『上田五千石全集』(*2)の『田園』補遺には「氷海」の発表作として、以下が残る。
さくら降りとめどなく降り基地殖ゆる 30年6月
午後の懈怠さくら花翳濃くなりて 〃
夜桜に耀りし木椅子の釘ゆるぶ 31年8月
朝ざくら悪夢に慣れて漱ぐ 35年5月
『田園』刊行までの十四年間にして、四句の発表というのはごく少ないと云っていいだろう。この「花」の句の少なさの理由を知るすべはないが、当然名句といわれる作品も多い「花」「桜」の作句を五千石はやや敬遠していたのではないか、というのは深読みし過ぎだろうか。
*
著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*3)の「自作を語る」の中で、掲句について、“伊豆の韮山での作”
とし、“満開の桜に出会ってこの句が生まれた”
と記す。“「花のさかり」を前にすると誰しも絶句してしまうもの”
、“私も「花」のむこうから「花」が「湧」いてくるのを眼前の景にしばし沈黙を強いられた”
と書き、さらに“我慢して「よく見」ていれば何かが発見できる”
、“「まぼろしの花」が見えてきたのはそのお陰”
、“現実の「花」も「湧」きつぎ「まぼろしの花」も「湧」きついで咲き加わっているのが見えた”、“「花のさかり」は虚実の「花」の混交だった”
としている。ここに書かれた通り、花に対峙したとき五千石でさえ絶句し、沈黙を強いられた。「花」を敬遠していたのではないかというものまんざら絵空事ではないかもしれないが、それを越えて詠もうとすれば、残せる作品ができるということだろう。
*
「まぼろしの花湧く花のさかり」というのはやや分かりにくようにも感じるが、「まぼろしのような花」をうち出したことにより、現実の「花」との遠近が鮮明になり、いわゆる「花の雲」の情景が読み手に伝わってくる。「かな」止めもよく働いている。
掲句は、五千石の数少ない「花」の句の中での代表句と言っていい。
*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊
*2『上田五千石全集』 富士見書房刊
*3 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊
齋藤玄の句/飯田冬眞
花散るや飢も睡りも身を曲げて
昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
花と言えば桜。今も多くの俳人たちが桜を詠んでいる。「桜巡礼」と称して日本中の桜の名所に足を運んだ俳人もいる。しかし、齋藤玄という俳人は、桜の句をそれほど残してはいない。ことに後半生(昭和46年から昭和55年)に限って言うと13句しか桜の句を残していない。(*2)
第4句集『狩眼』で4句、第5句集『雁道』で8句、遺句集『無畔』で1句を数えるのみである。3句集の合計収録句数が938句であることから考えると全体の1パーセント弱に過ぎない。
そのうち10句が「落花」すなわち、散る桜を詠んでいる。
散るさくら昼の淡きにさしかかり 昭和48年作 『狩眼』
桜が散り始めると、桜の木のあたりは淡い色に包まれる。淡い紅色は見つめていると眠気を誘う。昼にさしかかろうとする春の日の倦怠感を〈散るさくら〉の淡い色あいに重ねて描いている。
癒ゆる身はかりそめのもの朝桜 昭和49年作 『狩眼』
胆嚢炎を患い入院していた頃の句。〈癒ゆる身はかりそめのもの〉という独白と、昼には散ることを連想させる〈朝桜〉の取合せ。回復に向かっている肉体を〈かりそめのもの〉と突き放して見せているところに、死の予感に包まれている玄の心理状態を読み取ることができる。だが、絶句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉ほどの迫力はない。
生くるをも試されゐるか花吹雪 昭和50年作 『雁道』
桜は独白を誘うのかもしれない。饒舌な独白は観念に堕しやすく、俳句を陳腐化させる。〈花吹雪〉でかろうじて人生訓俳句から脱しているが、病に執している心が見える。
花びらの掃かるる音は知られけり 昭和50年作 『雁道』
聞こえるはずのない〈花びらの掃かるる音〉を病室内のベッドの上で聴いている病者の心理状態を想像して欲しい。幻聴といえばそれまでだが、花屑を掃く音を探す病者は狂気と生への執着との葛藤のなかで、自身が花屑となって誰かに掃かれている音を聴いていたに違いない。現実と非現実の音が耳の奥で交差する。壮絶な無音の病室が見えてこないか。
花散るや飢も睡りも身を曲げて 昭和50年作 『雁道』
掲句は〈生くるをも試されゐるか花吹雪〉〈花びらの掃かるる音は知られけり〉と同時期の作。〈飢も睡りも身を曲げて〉が句の眼目。ひもじさに耐えて眠った終戦後の日本人の共有体験が〈花散るや〉の上五から浮かび上がる。病中吟として読むこともできるが、戦後の一風景として記憶にとどめておきたい。
惜しげもなく散る桜の姿に多くの日本人が美を感じ取るなか、齋藤玄は故郷函館の桜を一度として詠むことはなかった。死後、生家にほど近い函館公園の桜の木の下には、玄の〈ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉〉の句碑が建てられているというのに。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 参考までに『狩眼』『雁道』『無畔』に収録されている桜および桜の関連季語を詠み込んだ13句をあげておく。
配列は句集における掲載順である。遺漏・過誤があればご教示願いたい。
花屑の険しさほどに狼藉す 昭和47年作 『狩眼』
散るさくら昼の淡きにさしかかり 昭和48年作 『狩眼』
悪しき世の坂は細りつ花吹雪 昭和48年作 『狩眼』
癒ゆる身はかりそめのもの朝桜 昭和49年作 『狩眼』
花散るや飢も睡りも身を曲げて 昭和50年作 『雁道』
生くるをも試されゐるか花吹雪 昭和50年作 『雁道』
花びらの掃かるる音は知られけり 昭和50年作 『雁道』
花の屑うすゆき鳩も忘らるる 昭和50年作 『雁道』
鯉守のやがてさびしき初櫻 昭和53年作 『雁道』
鯉の身のまた浮きやすし花吹雪 昭和53年作 『雁道』
野施行の心は空に花の雲 昭和53年作 『雁道』
花散るをすぐ立つまでの杉木立 昭和53年作 『雁道』
散りかかるばかり花びらめざましき 昭和54年作 『無畔』
青玄系作家の句/岡村知昭
このまま眠れば多摩川心中いぬふぐり 諧弘子
掲出句は著者の第一句集『牧神』に収録。表記は初出においては分かち書きがされていると思われるのだが、「青玄」誌上での初出が確認できていないため、楠本憲吉編集による『俳句現代作品集』(1982年、広論社)及び作者の追悼特集が組まれた「野の会」2011年9月号での表記に従った(『牧神』での表記がすでに分かち書きから改めているのかもしれない)。作者は1963年(昭和38)11月号の「青玄」誌上に初出句にして初巻頭でデビュー、1965年(昭和40)には青玄新人賞を受賞。その後に楠本憲吉の「野の会」に所属、2011年3月に亡くなられた。句集に『牧神』『兎の靴』がある。
「春うらら」という言葉がふさわしいある真昼の多摩川の河原で、1組の男女が土手の草の上に腰を下ろして佇んでいる。いぬふぐりの花が咲き誇る土手、草の上の二人はとりとめのない会話を繰り広げているではあるが、その中には確かな充実感が漲っているので、さまざまに話題を変えながらもお互いのやりとりが途切れることはない。そんな中、じっと見つめていた彼の顔から少しだけ目を離し、眩しい春の光に照らされながら流れ続ける多摩川の水へ視線を移した彼女の心にふとこんな思いがよぎる、「いまここでふたりが死んでしまったら、のちの人から曽根崎心中みたいに『多摩川心中』なんて言ってもらえるのかな」。自分のふとした思いつきがおかしくて、思わずかすかな笑みを浮かべる彼女。一方いきなりの彼女のほほえみに彼は「川を見ているだけのに何がおかしいんだろう」と思いながらも、彼女に向かって「何がおかしいの」と問いかける野暮な真似は決してせずに、眩しい春の光に輝く彼女のほほえみを改めて見つめ直す。そんなふたりを、いぬふぐりをはじめとした春の草の匂いはぼんやりと包み込むのである。
「心中」という言葉からもたらされるイメージは、「曽根崎心中」や「ロミオとジュリエット」(少し違うか)のように家族や世間、または自分たちの過ちといった要因によって追い詰められてしまったふたりが、相思相愛を貫こうとする欲望と、現世からの脱出を求めてお互いの手で命を断つというものなのだが、掲出句においては、ふたりの関係が十分に満ち足りたものであるのを確認している今このときに「心中」という言葉がふいに露わになる。だからといってお互いの関係に何かしら不吉な兆候が現れたとか、実は相思相愛のふたりが世間や社会にとっては到底許されない関係性を持っている、などといったいらぬ邪推はいらない。今このときを心中物のクライマックスである「道行」のはじまりとする把握は、あくまでも満ち足りたふたりの関係がもたらした彼女の悪戯心の賜物なのである。いぬふぐりはそんなかりそめの「心中」の舞台を飾るにはもってこいの花、「多摩川」は大都会の生活から醸し出されるさまざまな匂いを両岸で漂わせている空間であるだけに、ふたりのかりそめの「道行」の場の舞台としてはこれほどふさわしい場所はないだろう。
「青玄」誌上で活躍した若手作家たちの軌跡をたどった『青春俳句の60人』(1988年、土佐出版社)の著者森武司氏は掲出句について、
愛の極限の女心をこんなに見事に詠んだ句を私は知らない。多摩川原に燦燦と原始よりの太陽は降り注ぎ、相抱く男女。これは万葉人の直情的な相聞歌にも似て、さらに詩的であり、そして俳句そのものの骨法に支えられて深い感動を伝えてくる。怖しい作品である。
と賛辞を惜しまないのだが、読んだ後の深い感動を書いたあとで「怖しい作品である」との一言が加わったことで、評者がこの1句に対して感じた凄みがさらに伝わったのではないかと思われてならないのは、満ち足りた春の空間、満ち足りたふたりの関係への喜びを全身で深く味わい尽くそうとするさなか思いついた「心中」への想念が、誰の心にも一瞬訪れることがあるだろう「死」へと通じる「魔」への誘いのようにも見えるからだろうか。もっともこの春のひとときのこの瞬間、彼女は「魔」への誘いなどどこ吹く風とばかりに振り払って、何事もなかったかのように彼の顔へ満面のほほえみを向けるのであろう、その事のほうが実は「怖しい」のかもしれないが。
堀葦男の句/堺谷真人
落花いま紺青の空ゆく途中
『山姿水情』(1981年)所収の句。
颯々と吹き渡る一陣の風。その刹那、満開の桜の花がどっと薙ぎ払われ、夥しい花びらが紺青の空に溢れ出す。1秒、2秒、3秒・・・。少しずつ密度を落としながらなおひとしきり虚空を流れゆく花びらを、作者はたまゆらの旅人に見立てているのだ。
落花とは本来「落ちる花」「落ちた花」である。高きより低きに移動する花弁を、いわば本意本情とする言葉だ。しかし、葦男の落花は容易に落ちない。それどころか上昇気流に乗って旅に出ようとするかのような気勢さえある。
この句を初めて読んだとき、筆者は初唐の詩人・劉希夷の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代はりて)」の劈頭の聯を想い起こした。
洛陽城東桃李花 洛陽城東 桃李の花
飛来飛去落誰家 飛び来り飛び去りて 誰が家にか落つる
洛陽女児惜顔色 洛陽の女児は顔色を惜しみ
行逢落花長歎息 行くゆく落花に逢ひて長歎息す
描写力に優れる唐詩は、「飛び来り飛び去る」花びらは一体誰に落ちかかるのだろうかというところまで書ききってしまう。これに対して葦男の落花は、30数年前のある春の日に彼の視界をよぎった瞬間から今に至るまで、ずっと地上に落ちることなく紺青の空に止まっているのである。
葦男の句集『朝空』(1984年)の解説文の中で、大串章が述べている。
堀葦男氏は、みずからを極小の旅人と自覚する。しかし、そこからニヒリズムや 受身の無常感に堕ちてゆくことはしない。極小の旅人は極小の旅人として、自らの命をいつくしみ、自らの生を充実させていこうとするのである。
『朝空』の最終部は「過客」という章名である。歿後刊行された遺句集が関係者の熟議の末、同じく『過客』と名づけられたのは偶然ではない。百代の過客である光陰=悠久の時間にしばし随行をゆるされた極小の旅人という葦男の自己認識を尊重した結果であった。
この集名を撰した際、葦男の忌日である4月21日を今後「紺青忌」と呼ぼうではないかという提言をした門弟がいた。冒頭の句にこめられた過客の思いが葦男の人柄を何よりもよく表しているという理由からではなかったかと思う。
成田千空の句/深谷義紀
藁の家田打桜は満開に
第6句集「十方吟」所収。
田打桜。桜の文字が入っているが、実は桜ではなく、辛夷の別称である。辛夷の開花をみて田打ちに取り掛かったことに由来するという。
菅江真澄が文化年間(1804~18)に記した随筆「たねまきざくら」(随筆集「しののはぐさ」)に「辛夷の花の咲くのを出羽では田打桜といい、その頃に田を打ち、苗代の種蒔の頃の彼岸桜を種蒔桜という」
という内容のくだりがある。(講談社刊・新日本代歳時記「種蒔」・解説執筆:多喜代子)
自然事象を農作業の目処にすることは日本全国各地に見られ、他にも雪形に「種蒔爺」「代掻き馬」などの名を付け、それぞれの作業の目安にしていたことはつとに知られるところである。
東北の春は遅い。その春の到来を告げるのが、白い辛夷の花である。千昌夫が唄った「北国の春」にも次のようなフレーズが登場する。
こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春 (作詞:いではく)
青く澄み切った空を背景に、眩しいほどの白さを放つ辛夷の花。それは、長かった冬を乗り越えられた安堵の象徴であると同時に、これから一年の農作業が始まる謂わば開幕ベルである。冒頭の千空の作品にも、そうした喜びと期待が満ちている。
弘前城をはじめとして、北東北にも桜の名所は多い。確かに、あでやかに咲き、はかなげに散っていく桜の雅な美しさもいい。だが、「田打桜」という名を持ち、この地に生きた農民たちの思いを伝える辛夷こそ、津軽の「花」に相応しいと思う。
(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会③
- 出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)
- コメント:堀本吟
3.戦後の政治と遷子について。
筑紫は〈東大卒のインテリ程度の政治感覚は持っていたが、それを行動に結びつける意思はなかった〉、〈東京の開業医たちとは違った鋭い感覚が次第に育っていったことは間違いない〉が〈取り立てて優れた思想になっているわけでもないし、困窮劣悪に対する解決策を提示できているわけではない〉と述べる。
その上でこうした政治的不満が自然へ目を向けることにつながり、〈開業医としての社会的意識とリリシズム、それこそが遷子にとって価値のあることだった〉と考える。
原は「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」が端的に表すように〈誠実な良識的知識人〉であったと言う。
中西は遷子には政治の句が少なく、それらは『雪嶺』に集中していると言う。例句として次の句を挙げる。
人の言ふ反革命や冬深む(昭和31年のフルシチョフによるスターリン批判)
誰がための権力政治黒南風す
夏痩の身に怒り溜め怒り溜め
会議陳情酒席いくたび二月過ぐ
三句目は昭和35年5月19日の強行採決以後ますます激しくなった岸内閣への批判や安保反対デモの様子を連日のように伝えるマスコミの報道に基くのではないかと推測する。しかし遷子の怒りは〈あくまでも一般的な受け止め方だと思う〉と述べる。また四句目を〈遷子自身が何らかの形で加わった政治運動の句〉として挙げる。
深谷は「ストーブや革命を怖れ保守を憎み」など多少の政治的言辞を含んだ作品もあるが〈ごく常識的な感覚〉であり、〈特定のイデオロギーに傾いた様子は見受けられない〉と言う。
また〈税務署に対するやや皮肉めいた視点、あるいは核実験や「プラハの春」鎮圧に対する怒りは、やはりヒューマニズム的な観点から理解すべきもの〉と考える。
仲は政治についての句は『雪嶺』に多く〈選挙や核実験、果てはプラハの春を蹂躙したソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の戦車まで詠んでいる〉が〈核実験を愁い、戦争が終わって欲しい(ベトナム戦争の頃)と願う気持ちは通常の市民感情の域を出るものではない〉と言う。「人類明日滅ぶか知らず蟲を詠む」には定家の「紅旗征戎わが事にあらず」に通じるものを読み取る。
ただ東西冷戦の最も激しい時代に詠まれた「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」を〈遷子にしては珍しく己の政治観を表明した句〉とし〈革命は困る、しかし保守にもまた与しない。つまりリベラル派というか良識ある一知識人として中立を守るという姿勢が読み取れる〉と言う。〈但し語調の激しさから単なる日和見ではなく積極的中立とでも言える立場〉と読む。
- まとめ
全員に共通した認識として、遷子には『雪嶺』を中心に政治的な出来事や世界史的事件に触れた句が見られるものの特定のイデオロギーに傾いたものではなく知識人としての良識、一般市民の感覚の範囲を出るものではなかった。また複数の人が「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」を彼の中立的な立場の証左として挙げる。
ただ筑紫はこのような〈開業医としての社会的意識とリリシズム〉が大切であったと述べ、深谷は〈ヒューマニズム的な観点から理解すべきもの〉と判断する。
- コメント
堀本 吟:『相馬遷子 佐久の星』は、相馬遷子に関する殆ど初めての集中的な読書会記録(らしい)。らしいというのは、私は「馬酔木」圏内のこれまでの動きについては、殆ど知ることがなく、多少関心は持ってもその知識は教養以上のものではなかったからである。で、さきごろのウェブ「俳句空間—豈—weekly」でほとんどはじめて目にとめたのである。その全体的感想を先ず記しておく。
ただし、水原秋桜子と「馬酔木」への私の関心が高まったのは、すでに数年前に遡る。角川選書385『12の現代俳人論(下)』(平成19年・角川学芸出版)の筑紫磐井の《水原秋桜子論》がくわわっている。これはさらにさかのぼる雑誌「俳句」誌上にシリーズ連載され、それが集成され同社の刊行で単行本に作り替えられたのだが、筑紫のこの評論は、山口誓子、西東三鬼、篠原鳳作、または高柳重信らに代表される「新興俳句」という運動のもうひとつの読み方を示唆した視点として、私の今回の関わり方にもかなりの影響をあたえている。(といっても全面賛成と言うことでもないが)。
*
しかし、この過程では、筑紫磐井の評文には、まだ、相馬遷子の名もその例句もピックアップされていない。この角川選書の評文は全体としてわたしにいわせると、論者の論の締め方に緩いところがある。大阪で読書会をしていてもそつなくできてはいるがけっきょくは飽きてしまったのであった。が、「水原秋桜子論」は、その中でも読んでいて多少は新たな場所にわれわれの思考を導いてくれるようだった。秋桜子と馬酔木は、ホトトギス独裁からの離脱と言う役割を果たした後は、新興俳句から落ちこぼれていったとされる。だが、そこからはみ出した異端が、例えば山口誓子、高屋窓秋、石田波郷、加藤楸邨、金子兜太たちが作り上げた支流、それが勢いよく俳句活性化をもたらしたのである。筑紫の論調は、その支流の系譜化のような役割があったのではないだろうか?それは、誰かがやるべきことであるが、まだ集大成はなされていないのである。いわば、現代俳壇の土壌たる「結社史論」の整理であった。そのなかで、今回新たに相馬遷子をその支流のひとつであることが、提唱されている。当時の筑紫磐井は位置づけてはいなかったのである。
筑紫は「社会性俳句」という概念に入らず切り捨てられ無視された俳句を「社会的意識俳句」と呼び、それら埋もれてしまった俳句を再発見する必要があると言う。「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度を持った「社会性俳句」があり、その外側にそれとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したことを忘れてはいけないと強調する。「社会性俳句」が廃れた後も、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句であるがゆえに「社会的意識俳句」は生き残っていた、と言う。
この「社会的意識俳句」の代表的な作家として相馬遷子を位置付け、その他多数の社会的意識を持った俳句作家を「別の遷子たち」と呼ぶことを提唱する。【2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?】(筑紫磐井の発言(下線堀本)
とまで言いうるようになったのか、もうすこし強力な立論の過程と根拠がききたかった。
相馬遷子が魅力的な作家であることは私にも解った。それはこの読書会が誇るべき発見である。しかし。「馬酔木」の美意識を脱したことは、秋桜子の美学に呪縛されてきた馬酔木イズムの雰囲気の中では個人としては重要だが、「きりすてられた社会意識の代表」というように、わざわざここまで持ち上げていいものかどうかは私には疑問だ。こういうカリスマ化が、結社制度の反近代性を等閑視することにもなろう。
*
それから、彼のイデオロギーではない社会意識についてであるが、すでに戦前にこういう例がある。
私は現在、関西で【京大俳句を読む会】というあつまりにいれてもらって、昭和9年や10年ごろのバックナンバーを逐次読んでいっている。ここでは、山口誓子が、新しい時代の事象を積極的に俳句に読み込む、という提唱が盛んに実践されていて、また誓子が言わなくとも、都市化してゆく現実はおのずから投句の中に現れている。私がレポートを担当した昭和10年8月号では、例えば、こういうのがある 。
野に遊び子供の肢体汽車となる 山口誓子《青郊思慕》5句・(連作)
闇そこの白蛾のひゞき壁にせり 清水昇子 《留置場》6句(無季・連作)
禁断の書(ふみ)よセードの綠光に 岸風三楼《學の感傷—M博士に与ふ》(5句)
(註・「禁断の書」とは、それまで法学上の必読書であった美濃部達吉「天皇機関説」の排撃がおこり、貴族院議員辞職。政府が「国体明徴声明を出した。一連の事件。(昭和10年〜11年)を指していると思われる。「M氏」は、美濃部のことだろう。
一瞬の孤独地獄の汗つめたし 西東三鬼
黄に燃ゆる孤独地獄に耳きこえず 同
西東三鬼は、《株式取引所》《武蔵野》各4句(年風俗と田園にともに「孤独地獄」という内面世界を取り合わせている。全8句の連作)
古りし靴に風青くどこぞピアノの弾奏 三谷昭《すてられた古靴》(4句自由律)
疫痢児のうはごとなるを母は知らず 藤後左右 5句
森に佇つ風癲守に月墜ちよ 平畑靜塔5句 (以上、「京大俳句」第三巻、昭和10年8月号)
新興俳句の牙城となった京大俳句の同人達のこれらは、いずれも、近代社歌会の現実に直面した題材を真っ向から取り入れている、しかし、これらはだんじて社会イデオロギーではない。かれらはむしろ戦後はイデオロギーをさけている。藤後左右や平畑靜塔は医師として究めて職業的に感性的に俳句的に特異な題材を生活詠として自然に詠んでいる。俳句に於けるイデオロギーと単純な社会意識の分岐点はまだはっきり分析されていない。筑紫の提案はそう言う意味でも過渡的な説として意義がある。
俳句を始めた頃の相馬遷子がこの「京大俳句」の購読者であったかどうかは私には解らないが、生活が都市化されるし専門職が増えてくるにつれ、このような生活意識が日本人の感性に入り込んできた、山村のエリートであった遷子にもそれを受け入れる感性が芽吹いていたといえるのではないだろうか?
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が、そのことは、筑紫磐井の相馬遷子発見、と本書の共同研究のありようをを過小評価する理由にはならないのである。
昭和十年遷子が秋桜子の門下として出発したころは、新興俳句が台頭し俳句弾圧事件でリベラリスト達が弾圧された。また石橋辰之助は。昭和10年に句集『山行』を刊行し、単なる登山俳句ではない、と平畑靜塔の共感ふかい評をもらっている。(「京大俳句」同年8月号)。石橋は都会人であるが、馬酔木同人が「自然の真と藝術の真」と追究してゆくはてには、人間存在の真に行き当たる機会が必ず誰かのうえに生じてくる。そういう秋桜子の俳句思想具体化の過程とも考えてみると、私達の現代俳句にとっても一層意義深いところがあると思う。(この稿了)