自由詩時評 第32回 小峰慎也

時評なのかな

渡辺玄英『破れた世界とカナリア』(思潮社、2011・10)。なぜ、「セカイ」「キオク」「ばーじょん」「キボー」などと書くのか。とじのない丸かっこでつけたされることばが、ストレートにいいきってしまうことに不安を感じている気持ちから来ているとしたら。表記を片仮名にしたりひらがなにしたりするのも、かつて「世界」とか「記憶」と書かれていたことばが、もう違うものになっちゃったよということを(そのままじゃ通用しないということを)示したいのかもしれない。だけど、どうも古いのだ。かっこ悪い。世界をそんなふうにとらえた、というより、誰かが少し前に描いた絵を模写しているような、という比喩でいってみたくなる。いや、それこそが書きたいのだというかもしれない。二十年、三十年たって、記念として読める、そういう日が来るかもしれない。初出がきちんと書いてあるのがいい。
(2011年10月26日)

追記。「古い」という判断は、違う気がしてきた。無理して若ぶっているというのともまたちょっと違うのだけど、「ずれてる」という感じかな。いや、ずれてるのはこっちか。
(2011年12月3日)

橘上『YES(or YES)』(思潮社、2011・7)。橘上が、もうひとつの車輪をつかいはじめた。正統派にむかって、それをやりきったいさぎよさ。それから、「定型」にこんな息吹きを与えられるとは。
(2011年11月のある日)

藤井貞和『東歌篇――異なる声 独吟千句』(反抗社出版(発行)・カマル社(発売)、2011、9)と田中宏輔『The Wasteless Land Ⅵ.』(書肆山田、2011、10)を並べてみたい気がしてきた。いいとか悪いとかどうでもよい場所で書くこと。それに加えて、その場所はどこなのかということが重要になってくる。

ぼくはこの2冊を読んで、それは「読んだ人に思わずものを書かせる場所」だと思った。
『東歌篇』に附載されている「旋頭歌 まがつ火ノート 2011・5・27夜~28朝」
(初出はこの「詩歌梁山泊」6月3日号)から。

日本国陛下 あなたが沖縄の地へ
早くからゆかれたことを評価するなら
 
願うのだ。われら、東京二十四区として
皇居地をとわに「福島特区」にせよと
 
高齢者 心のケアのためにいまこそ
地に這うか、天にうごくか。宮内庁病院
 
皇居地の青を、みどりを 被災の国へ
心ある陛下夫妻なら 分かち与えよ
 
天罰という暴言は― 反省したから
過ちを許せ。石原東京都知事
 
石原よ 陛下に奏上し、進言をせよ
皇居地を東京福島県のまんなかに

面白い。こんなとんでもない、思いつきもしなかった「提案」「建言」を詩のなかに書く。それもいまはほとんど使われなくなったかたち、旋頭歌(5・7・7、5・7・7)のなかによじり入れるように書き、ネット上に発表する。うむをいわさぬ倒錯がせせら笑いや冷静な頭をのりこえてくる迫力がある。「うむをいわさぬ」「感動」「迫力」は危険なのかあぶないのか。この際、危険でもいいんじゃないか?って思ってしまう。まだ彼は一人なのだから。飲まれてみるのも悪くない。

 田中宏輔の「順列 並べ替え詩。3×2×1」(前掲書所収)から最初の2連。

映画館の小鳥の絶壁。
小鳥の絶壁の映画館。
絶壁の映画館の小鳥。
映画館の絶壁の小鳥。
小鳥の映画館の絶壁。
絶壁の小鳥の映画館
 
球体の感情の呼吸。
感情の呼吸の球体。
呼吸の球体の感情。
球体の呼吸の感情。
感情の球体の呼吸。
呼吸の感情の球体。

といった風に、3つの語を「の」でつないで、句点で終わる、それを並べ替えて6通り6行で1連を構成(途中、「ぼくが夢のなかで胡蝶を見る。」のように、「の」でつながれるパターンではないものも入っているが)。それが51連つづいている。いったいこれはなんなのだろう。おそらく見えてない部分に、たとえば語の選び方などで何か法則がありそうだが、見えているところだけでいうと、ごくシンプルで、そしてシンプルすぎて、まず思うのは、「無味乾燥である」ということ、「何の発展性もない」ということと「これでもかというほどしつこい」ということで、この3点はそろっていてはじめて、この詩を緊張状態にとどめている要因になっている。選ばれた3つの語を並べ替えていくことで、意味をとるのに苦労するところや、意味の想像できないところ、そのなかでひらっひらっと、偶然、意味がひらめく箇所がやってくる。その意味の角度の変化、リズムを楽しみながら、このような機械的な作業でなければ、決して生まれなかっただろう、いいかたをかえれば、自分の人間性に頼っていては決して生まれなかった「意味」が突然生まれるのだ。しかしそれはすぐにうちすてられる。

ほんとうにいいたくなるのは、何の目的でこの詩がつくられたのか、その主体を想像すると(想像してしまうが)、その想像不可能性に心を持っていかれるしかないということだ。帯に「数学詩集」とあるが、数学的にしか存在しない、ある不可能な感触(いいあらわしかたがわからない。たとえば複素数を「実感」しようとしたときに起こるような感じ)で、詩をなりたたせるとほうもない試みなのだ。
(2011年11月24日)

「何。バスの中に置いてあるのか。今からそれを取ってきたい、うーん。」
「ねえ、取りに行かせてあげたら?」
「うーん、しかしなあ。これから向かうんでは少し――」
「ノー、ですか?」
「ダメなの? 先生。」
「ダメ。往復する時間はない。」
(【ブラジルの碑、平和へのメッセージ】)

青木淳悟の小説『私のいない高校』(講談社、2011・6)の、冒頭、エピグラフのように置かれたことば。これが「ブラジルの碑」に書かれたものの訳なのか、青木淳悟の創作なのかはわからないけど。
(2011年12月2日)

つけたし。「現代詩手帖」2011年12月号の鼎談での岸田将幸について。以下は、SNS「mixi」の日記(2011年12月3日)にも書いたものを、訂正したもの。

鼎談の岸田将幸の「詩」観にやはり反発を覚えた。岸田の考える「詩」とはどういうものなのか。「詩というものが原理的に断絶を持ち込むものだとすれば、」とか「全体主義」を難ずる論調からすると、「雰囲気に巻き込まれないように断絶してなきゃいけない」、いいかたをかえると「簡単に共感できるような、わかるようなことを書くことを拒否する」というようなことなんだろうけど、ぼくからすると、そんなの文学的なロマンみたいなもので、そもそも無理。だいたい、ことばにした瞬間に、ふだんことばを使っているときにともなう、文脈や効果、習慣といったものが、かならず出てくる。「断絶」なんてとてもとても。「不可能」だからこそやろうとするっていう、そういうロマンなのだろうか。「気をつけてる」くらいでいいんじゃないの?って思ってしまう。たしかに、話が通じないものに対してどうしたらいいかっていうことはいつも出てきているけど(こういう書き方、態度というのが岸田が最も嫌う態度だ)。ほとんど、岸田が面白いといっているものがぼくにとってはつまらなく、岸田が難色を示しているものを面白いと思う、というほどに逆転しているので、むしろ笑ってしまった。参考にはなるが。

やっぱり岸田将幸のような「詩」観を持ってかかれた詩が、ほとんど同じ匂い、もっといえば同じような語彙で書かれているように「思える」のは、結局、岸田の「詩」観って、「趣味・嗜好」にすぎないんじゃないかって思わせてしまう。
(2011年12月3日)

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